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【西安事件(西安事変)とは】昭和11年に発生した蒋介石監禁事件をわかりやすく解説

西安事件

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目次

【1分で分かる】西安事件(西安事変)とは?

西安事件は昭和11(1936)年12月12日に、国民党の首席の蒋介石(しょう・かいせき)が、同じく国民党の張学良(ちょう・がくりょう)に監禁された事件・クーデターのことです。

西安事件前から蒋介石の政策に対して疑念を抱いていた張学良は、監禁した蒋介石に対して「中国国内の内戦停止」「抗日戦」の要求を行いました。

結果として中国共産党の周恩来(しゅう・おんらい)の調停などにより蒋介石は釈放されましたが、西安事件をきっかけに中国は抗日の動きへと進んでいきます。

西安の現在の場所

西安事件(西安事変)が起きた背景・目的

張学良の父は張作霖爆殺事件で有名な張作霖(ちょう・さくりん)です。

張學良は、父親を殺した日本に対して恨みを抱く一方で、蒋介石率いる国民政府に臣従するようになりました。

しかし「内戦停止」と「抗日」を主張していた張学良とは反対に、抗日戦ではなく共産党討伐の意思を貫く蔣介石の政策に対して次第に批判的な考えを持つようになります。

1936年(昭和11年)12月10日、蔣介石は張學良の反対を押し切って共産軍討伐作戦の実施を決定しました。

これを受けて張學良は、反共戦争の発生を阻止するために、蔣介石の監禁を策謀して、西安事件へと発展していきます。

先生
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西安事件を引き起こした張学良は、父親の下で軍隊生活の経験をつんでいたこともあり、国民党では昇進を重ねるエリートでした。

張学良は西安事件勃発当時には、軍事面では実質的には国民党のNo.2の陸軍一級上将にまで登りつめているわ。

張作霖爆殺事件とは何か?発生の目的・その後の影響をわかりやすく解説しました「張作霖爆殺事件とはなんだったの?簡単にわかりやすく知りたい」こんな疑問を解決できる記事になっています。...

西安事件の勃発と経緯

西安事件
▲西安事件の舞台となった華清池の写真(編集部スタッフ2016年12月撮影)

西安事件の流れ

1936年12月12日 西安事件勃発。張学良と楊虎城が蒋介石を西安の華清池で捕らえ、西安で監禁。張学良は国民政府宛に8項目の要求を通電する。
1936年12月13日 張学良は飛行機を保安に飛ばし、周恩
1936年12月14日 蒋介石の顧問であり、張学良の友人W・H・ドナルドが西安に到着。
1936年12月16日 国民党中央政治局会議にて、国民政府軍の何応欽(か・おうきん)を討伐総司令に決定。
1936年12月17日 周恩来、西安に到着。
1936年12月19日 蒋介石の義兄の宋子文が西安を訪問し、張学良と会談を行う。
1936年12月25日 蒋介石、釈放。
1937年2月10日 中国共産党、国民党に国共合作を提議。
1937年2月15日〜22日 南京にて国民党5期三中会議を実施し、西安事件の統括を行う。
1937年2月22日 国民党、中国共産党の「和平統一」政策を受け入れる

参考:国史大辞典編纂委員改編『国史大辞典』(吉川弘文館、1968年)、家近亮子『造反版中国近代政治史年表1800年〜2003年』(晃洋書房、2004年)、永橋弘价「西安事件剿共作戦と国共合作西安事件」(国士舘大学政経論叢、1989年)

昭和11年12月12日未明:蒋介石らを監禁、西安の将領を逮捕

西安事件では、張学良のほか、かつて蒋介石率いる国民党を罷免(ひめん)になった楊虎城(よう・こじょう)らが中心となり事件を引き起こします。

張学良の反乱軍は、蒋介石の監禁だけでなく、国民党本部、鉄道駅、電話局などを包囲・選挙し、西安にいた国民党の将領も全員逮捕をするなど大胆なクーデターを起こします。

西安事件が発生した華清池
▲西安事件の舞台となった華清池の写真2(編集部スタッフ2016年12月撮影)

西安事件での張学良から蒋介石への要求

事件が起きてから、自分の意思と対立していた蒋介石に対して以下の8か条の要求を行いました。

  1. 南京政府の改装
  2. 一切の内戦の停止と武装抗日政策の採用
  3. 上海で逮捕された全国救国連合の指導者の即時釈放
  4. 政治犯の大赦
  5. 人民の集会、結社の自由の保証
  6. 人民の愛国運動を自由にすること
  7. 孫文の意思の実現
  8. 救国会議の即時開催

12月17日:周恩来が西安に到着し、事件の仲介に入る

前日の16日に国民政府軍は西安を完全に包囲すると、国民党と共産党の内戦の危機が高まりました。

そこで仲介にあたったのが、中国共産党の周恩来(しゅうおんらい)でした。

周恩来は、張学良の依頼を受けて蒋介石の説得に当たります。

12月25日:蒋介石は南京に帰還

蒋介石は、張学良の8項目の要求と周恩来の説得に応じたことで、12月25日に西安城から釈放されることとなりました。

一時は蒋介石の安否が不明だったこともありましたが、無事に生還したことで西安事件は一旦落ち着きを見せます。

西安事件のその後の影響

【張学良】無罪になったものの、国防委員会の監視下に置かれる

張学良は西安事件の同年の12月31日に、軍法会議にかけられ懲役10年と5年間の市民権剥奪の判決が下されます(※参考)

しかし蒋介石が特赦(とくしゃ:特別に許すこと)を求めたため、張学良は無罪が確定し、身柄が国防委員会の監視下に置かれることとなります。

先生
先生
張学良は戦後も国民党とともに台湾に渡りましたが、その後も軟禁状態で生活し、2001年に100歳で亡くなりました。

国民党と共産党は国共合作へ向かう事になる

西安事件の翌年昭和12(1937)年3月5日、国民党は共産党の「内戦を停止して外敵に当たる」などの提案を実質的に受諾しました。

この時は完全に受諾した訳ではありませんが、同年7月7日の支那事変勃発を機械に、本格的に国共合作へと動き出していくこととなります。

西安事件のまとめ

記事のまとめ
  1. 国民党のトップの蒋介石の政策に違和感を覚えていた張学良は、昭和11年12月12日に蒋介石を西安にて監禁。
  2. 蒋介石監禁時に、張学良は蒋介石に対して8か条の要求を行う。
  3. 西安事件は、周恩来などの仲介により解決。
  4. 西安事件を起こした張学良は、事件後に国民党の監視下に入る。
  5. しかし、その後国民党と共産党は本格的に国共合作へと動き出すこととなる

参考文献:

  • 岡崎邦彦「西安事件後の国共交渉(上)」『東洋研究』162号、大東文化大学東洋研究所)。
  • 国史大辞典編纂委員改編『国史大辞典』(吉川弘文館、1968年)。
  • 家近亮子『造反版中国近代政治史年表1800年〜2003年』(晃洋書房、2004年)。
  • 永橋弘价「西安事件剿共作戦と国共合作西安事件」(国士舘大学政経論叢、1989年)。
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勝田健太郎
近代日本史オタクのWEBマーケター。 慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。学生時代の卒業論文のテーマは「親日派外国知識人が見た満州事変」。