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昭和の戦争・事件

満州事変とは?目的やきっかけ、原因となった関東軍の理由をわかりやすく整理しました

満州事変

満州事変(満洲事変)って聞いたことあるけど、いつ起きたの?

そもそも満州事変の目的は?どんな事件だったの?

満州事変があったことで日本の情勢にどんな影響があったの?

近代日本史上、転換期とされる満州事変。

この記事では、満州事変の経緯事件の原因その後の反応と影響を整理しました。

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目次

満州事変とは何だったのか?

満州事変とは

満州事変とは、昭和6(1931)年9月18日に中国の奉天郊外の柳条湖で発生した日本軍と中国軍との武力衝突(柳条湖事件)を契機として、関東軍が満州全土を占拠した近代日本史上の出来事です。

満州事変の発生〜満州国建国までの流れ

先生
先生
それでは満州事変の発生から、満洲国建国までの流れを解説します。

昭和6(1931)年9月18日に、中国の奉天の柳条湖付近で、南満州鉄道の線路の一部が爆破されます。

この事件を柳条湖事件と呼び、中国国民党の張学良(ちょう•がくりょう)の犯行と発表されました。

しかし真実は、関東軍の板垣征四郎(いたがき・せいしろう)石原莞爾(いしわら・かんじ)の策略だったことが明らかになります。

石原莞爾▲石原莞爾(国立国会図書館 近代日本人の肖像)

この事件以降、関東軍は清国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)を擁立して、日本の傀儡国家=満州国が建国されました。

この一連の流れを満州事変と呼びます。

日本は昭和3年に自衛戦争以外の戦争を禁止する『不戦条約』に加盟していたので、戦争ではなくあくまでも自衛のための行動だと強調していました。

不戦条約
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満州事変の年表

発生時期 できごと
昭和6(1931)年9月18日 柳条湖事件発生(満州事変)
昭和7(1932)年3月1日 満洲国建国宣言
昭和7(1932)年9月22日 リットン調査団の報告書が国際連盟に付託
昭和8(1933)年2月24日 連盟総会は同報告書を採択
昭和8(1933)年3月27日 国際連盟の脱退を日本が通告
昭和8(1933)年5月31日 塘沽協定で日本軍と中国軍の軍事衝突が停止

満州事変・満州獲得の原因・目的

満州事変の目的

満州事変の原因は主に以下の2つです。

  1. 日中関係が悪化したため
  2. 満州地域の資源を得るため

原因・目的1:日中関係が悪化したため

満州事変の原因の1つ目は、日中関係の悪化です。

日中関係が悪化した理由は、満州事変と同年の昭和6年に起きた中村大尉事件による影響とされています。

先生
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中村大尉事件とは、当時興安(こうあん)嶺方面の兵要地誌調査に訪れていた中村震太郎大尉がスパイ容疑で銃殺され、石油で焼かれてしまった事件のことです。

中村大尉の殺害を実行したのは満州地域を治めていた張学良軍でしたが、張学良はこの事件への関与を否定しました。

この一件がマスコミによって発表されると、世論は盛り上がり対中感情は悪化しました。

原因・目的2:満州地域の資源を得るため

もう一つの理由は、満州は日本にとっての「生命線」と考えられていたことです。

なぜなら満州は石炭や鉄鉱石などの豊富な資源が取れる地域で、資源の乏しい日本にとっては重要な場所だったからです。

先生
先生
日本では昭和5(1930)年の昭和恐慌で頻出した貧困農民を保護することが急務となっており、満州こそが彼らの受け皿になる場所とされていました。

昭和6年9月:満州事変の勃発

冒頭でも記述した通り、奉天郊外の柳条湖付近で満州鉄道線が爆破されます。

昭和6年9月18日夜10時半ごろの出来事でした。

この爆破事件を柳条湖事件と呼びます。

柳条湖

この爆破行為を関東軍は中国軍によるものとして、中国軍相手に攻撃を開始しました。

関東軍は翌日の午前一時に奉天市街への攻撃を開始し、北大営と奉天を占領します(参考)

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満洲を制圧した「関東軍」とは何か?

関東軍とは何か

明治37(1904)年の日露戦争で日本は満州地域の遼東半島の租借権(そしゃくけん)と、南満州鉄道の経営権を獲得しました。

その満州に派遣されたのが、関東軍と呼ばれる人たちでした。

先生
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「関東軍」の名称は、日本の関東ではなく、日本兵が現地で警備していた場所の関東州に由来しています。
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満州事変の中心人物、石原莞爾の思想と目的

世界最終戦論

満州事件の中心となっていたのが、関東軍参謀の石原莞爾です。

石原は日蓮主義と、独特の世界認識に基づいた思想を持ち合わせていました。

先生
先生
世界認識とは、世界最終戦争が以下の3つの条件から発生するので、「満州地域とモンゴル地域の開発を断行しなくてはいけない」として、満州地域(当初は中国本土)の獲得を「正義の使命」と考えていました。
世界の最終戦争が発生する3つの要因
  1. アメリカが西洋文明の中心となろうとしたとき
  2. 日本が東洋文明の中心となろうとしたとき
  3. 飛行機が無着略で世界を一周したとき

この構想を「世界最終戦論」と呼びます。

この対米戦争に備えるためには自給自足の体制を確立するが必要があると、石原は考えていたのです。

この独自の考えを持つ石原は、「帝国陸軍の異端児」や「戦争の天才」などと称されていました。

昭和7年3月:満州国の建国

満州国とは

満州事変が発生した翌年の3月1日に満州国が建国され、清国最後の皇帝の愛新覚羅溥儀が満州国の執政(しっせい)に就任します。

建国当初は日本と満州は「共存共栄」といったスローガンのもと、同列的な友好関係が築かれていました。

しかし徐々に満州国は「天皇陛下の保佑(ほゆう)」によって成り立つという完全な上下関係があることが示されるようになります。

満州国とは
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保佑(ほゆう)
ご加護のこと。

満州事変の日本国内の対応と諸外国の反応

満州事変は日本国内でどのように対処されたのでしょうか。

またこの項目では諸外国の反応を含めて、以下のことについてまとめました。

国内と諸外国の反応
  1. 満州事変当時政権を握っていた第二次若槻礼次郎内閣の対応
  2. 後任の犬養毅内閣の対応
  3. 中国の反応
  4. 石原莞爾が戦争を想定していたアメリカの反応

第二次若槻礼次郎内閣は「不拡大方針」

若槻礼次郎▲若槻礼次郎(国立国会図書館 近代日本人の肖像)

満州事変勃発後、時の政権を担っていた若槻(わかつき)礼次郎内閣は、不拡大方針を閣議決定とします。

先生
先生
不拡大方針とは、これ以上事態を拡大させない方針のことです。

しかし、関東軍は不拡大方針を無視して軍事行動を広げていきました。

欽州爆撃やチチハルへの進行を続けた関東軍を制御できなくなった若槻内閣は、総辞職に追い込まれ、犬養毅内閣が誕生します。

犬養毅内閣

犬養毅▲犬養毅(国立国会図書館 近代日本人の肖像)

若槻政権からあとを継いだ犬養毅(いぬかい・つよし)は、満州事変を中国国民党との直接交渉で収拾をつけようと考えていました。

なぜなら犬養は、中国の国民党に知り合いが多くいたため平和的解決ができると考えていたからです。

先生
先生
犬養は、かつて辛亥(しんがい)革命が勃発した際に中国に渡っていた人物でした。

しかしながら関東軍の行動は止められず、満州では満州国建国の駒が進められていました。

結局犬養の和平交渉は実現せず、昭和7年(1932)年5月15日に海軍青年将校によるテロ事件(五・一五事件)によって犬養は暗殺されてしまいます。

中国国民の満州事変の反応は?

満州事変の中国の反応

中国側の張学良は、蒋介石の命令で日本に対して「不抵抗」の姿勢を貫いていました。

なぜなら、前述の中村大尉事件で中国政府の対応の悪さから、日本国内で中国との開戦が叫ばれるようになっていたからです(参考)

蒋介石はこの開戦を避けたかったので、日本には抵抗せずに衝突回避を指示していました。

しかし、昭和11年の西安事件が引き金となり、対日戦争へと傾いていくことになります。

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アメリカの満州事変の反応は?

アメリカの反応

昭和7(1932)年1月までは、アメリカでの一致した見解は見られませんでした。

しかし、中国大陸におけるアメリカの権益が脅かされる可能性が大きくなると、日本の満州行動を批判する姿勢に傾いていきます

これには、昭和7(1932)年2月のスティムソン国務長官が満州国不承認の宣言(スティムソン・ドクトリン)をしたことや、日本の9カ国条約の侵害を指摘したことが背景にありました。

そしてBoston Evening Transcriptや、New York News、Nationなどの新聞・雑誌はスティムソン国務長官の対日方針を「極東に平和と秩序をもたらす最善の方針」として熱心に支持を示すようになります。

一方で、少数派ではあるものの日本を擁護し、日本国内で好感を持って迎えられたアメリカの論客もいました。

たとえば民主党議員でウィルソン元大統領の信任者として知られた、エドワード・マンデル・ハウスは「日本は後進国である」という前提のもと、「領土と資源に恵まれた国は、恵まれない国に資源を与えることで平和は保たれる」という趣旨の主張を残して、日本を擁護しています。

満州事変をきっかけに、日本は国連を脱退することに

国際連盟脱退

日本は、中国側から国際連盟に満州国建国の無効と、日本軍の撤退を求めて提訴されます。

国際連盟からリットン調査団が派遣され,報告書が連盟事務局に付託されましたが、日本は「日本の軍事行動は居留民の声明・財産保護のため」であったとして、報告書に異義を唱えました。

しかし、連盟総会が行われ昭和8(1933)年2月24日に報告書が採択されます。

これに対して、日本は同年の3月27日に国際位連盟の脱退の通告と声明を発表し、国際連盟を脱退しました。

国家を強固なものにするために行われた満州事変でしたが、これらの出来事をきっかけに皮肉にも「日本は国際的に孤立を深めた」と後世になって指摘されることになるのです。

国際連盟の脱退
日本の『国際連盟の脱退』の理由とその後の影響とは?松岡洋右はなぜ議場から退出したのか日本の国際連盟(国連)脱退とは?いつ、なぜ起きた?この記事では、日本の国連脱退の理由・影響や問題点について解説します。...
先生
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満州事変は、昭和8(1933)年5には中国と塘沽(たんくー)停戦協定を結び、一旦の収束をみせました。

さらに翌年2月には、アメリカのハル国務長官に対して親善メッセージを送り、対外関係の再建に乗り出しています(参考)

その後、ソ連や中国とも友好の姿勢を示すようになるため、国際連盟の脱退を必ずしも「国際的な孤立」と結びつけることはできません。

しかし満州事変が、のちの二・二六事件日独伊三国同盟などに影響を与えた決定的な転機になったことは間違いないでしょう。

満州事変をもっと知りたい人向けのおすすめ本

満州事変に関する本

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「難しかったので、もっとわかりやすい本で勉強したい」

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そんなあなたのために、東京歴史倶楽部が厳選した満州事変のおすすめの書籍を紹介します。

書籍1.コミック昭和史(第1巻) 関東大震災〜満州事変

あらすじを見る

大正11年3月8日、水木しげるが生まれる。事実上の昭和史は、大正12年の関東大震災から始まった。マグニチュード7.9。震源地に近い神奈川県はもとより、東京も壊滅的な打撃を受けた。この関東大震災が昭和が始まって3ヶ月後の金融恐慌の原因となった。昭和とはどのような時代だったのか。昭和という時代を生き抜いた水木しげるが庶民の目で描ききるコミック昭和史!!

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漫画で昭和初期〜満州事変を理解したい人

書籍2.満州事変の衝撃

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あらすじ・目次を見る

【あらすじ】
1931年勃発の満州事変は、国内的には軍部の力を拡大させ排他的なナショナリズムを高揚させ、対外的には欧米諸国との摩擦を増大させて日本の国際社会での孤立化を深めた。かかる事変の衝撃を、多角的に考察する論考集。

【目次】

まえがき

民政党の反応

政友会の対外強硬論

満州事変と無産政党・共産党

満州事変期における国際協調外交の模索
―石井菊次郎を中心に―

国維会の成立と思想活動

財界のアピールと財界人の時局観
―日本経済連盟会を中心として―

国際協調論者田川大吉郎における対外認識の矛盾

徳富蘇峰の欧米観

東亜同文会の中国観

イギリスの同情と批判

満州事変と中国国民党

満州事変と中国共産党の対応

満州事変と朝鮮民族

あとがき

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満州事変の国内外の反応を詳しく知りたい人

書籍3.満州事変から日中全面戦争へ 戦争の日本史

あらすじ・目次を見る

【あらすじ】
日本の軍部と政府はどのような意図で対中国政策を悪化させ、全面戦争にまで至ったのか。当時の日本の「自衛」論や戦闘行為を国際法の視角から読み解き、兵士の体験記・回想・写真をもとに、戦死者と戦争責任を考える。

【目次】
戦争へのまなざし―プロローグ

Ⅰ=満州事変(柳条湖事件/幣原外交の終焉/「満州国」樹立と国際連盟脱退/戦争支持と社会の再編)

Ⅱ=華北分離工作から日中戦争へ(華北分離工作/日中全面戦争の開始)

Ⅲ=戦争違法化体制と日本の中国侵略(戦争違法化体制/満州事変と国際法/日中戦争と国際法)

Ⅳ=戦争犯罪と支配の諸相

Ⅴ=戦場の兵士と戦死

Ⅵ=「泥沼化」から「南進」へ

戦死者をめぐって―エピローグ

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こんな人におすすめ

満州事変からどのように日中戦争へと進んだのかを知りたい人

書籍4.政党内閣の崩壊と満州事変 1918〜1932

あらすじ・目次を見る

【あらすじ】
なぜ陸軍が権力を掌握したのか―田中義一、浜口雄幸、若槻礼次郎、犬養毅…陸軍改革の試み、その意図せざる挫折を描く。初めて解明される政軍関係の角逐。

【目次】
はじめに――研究史の整理と課題と設定

序 章 政党による陸軍統治

1 政党政治と山県没後陸軍

(1)原敬による政軍関係の再編  (2)田中陸軍支配の確立―政党政治への適応
(3)宇垣軍政の展開―陸軍省による参謀本部の統制  (4)山梨軍縮をめぐる政治過程
(5)護憲三派内閣と宇垣軍縮

2 政党政治と中国政策

(1)「支那国際管理」問題と陸軍  (2)出先陸軍の統制―第二次奉直戦争と郭松齢事件
(3)「支那赤化」の脅威と日本の反応―田中政友会の成立

第Ⅰ部 二大政党制と陸軍統治の動揺

第一章 田中政友会と山東出兵

1 政党による攻略出兵―第一次山東出兵の迷走

(1)第二次東方会議の政治過程  (2)出先規模の縮小と青島での「立ち往生」
(3)政策決定の混乱 (4)陰謀のはじまり―奉海線問題と関東軍

2 田中陸軍支配の崩壊

(1)森恪をめぐる権力状況  (2)性急な出兵―大事に山東出兵の政治過程
(3)田中陸軍支配の終焉(上)―済南事件の勃発  (4)田中陸軍支配の終焉(下)―張作霖爆殺

第二章 相対的安定と破局への予兆――浜口雄幸と宇垣一成

1 つかの間の安定―浜口内閣と陸軍

(1)政党勢力と陸軍軍縮問題  (2)満州の「解放」―中国政策の新展開
(3)日本陸軍と中原大戦

2 均衡の崩壊

(1)民政党の急進化と宇垣軍政の行き詰まり  (2)政軍関係の緊張―朝鮮増師問題の登場
(3)経済外交の限界―井上準之助・石原莞爾・永田鉄山

補論 クーデタから「憲政擁護」へ―宇垣一成・永田鉄山と三月事件

(1)宇垣をめぐる政治的策謀  (2)「第三次憲政擁護運動」

第Ⅱ部 政党政治と陸軍統治――その同時崩壊

第三章 政党内閣と満州事変

1 危機の発生―満州事変の勃発

(1)関東軍をめぐる権力状況  (2)「権益擁護」―不拡大線の設定

2 事態の混迷

(1)危機の連鎖―朝鮮・南満・「北支」  (2)石原莞爾を更迭せよ

3 政党内閣の反撃

(1)事変の拡大と若槻内閣の対応  (2)統帥権をめぐる混乱―北満出兵問題の政治過程

4 逆転―第二次若槻内閣の崩壊

(1)幣原外相による「統帥権干犯」  (2)満州委任統治構想―石原莞爾と吉田茂

5 協力内閣運動のメカニズム―政友会と満州事変

(1)逡巡する森恪  (2)倒閣へ

第四章 政党内閣の崩壊

1 犬養内閣と陸軍

(1)支那駐屯軍の抑制  (2)陸軍穏健派との連携―中国国民政府との秘密交渉と満州撤兵問題

2 第一次上海事変の勃発

(1)予想外の事態  (2)犬養構想の破綻―海軍艦隊派の擡頭
(3)天皇の動揺と西園寺の元老拝辞

おわりに――一九三五~三六年・陸軍統治システムの解体

参考文献

あとがき

人名索引

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『政党内閣の崩壊と満州事変』のレビュー
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まとめ

  • 満州事変は、昭和6(1931)年9月18日に中国の奉天郊外の柳条湖で発生した日本軍と中国軍との武力衝突(柳条湖事件)を契機として発生した出来事。
  • これを機に、関東軍が満州全土を占拠し、満州国を建国。
  • 日本は中国側から国際連盟に満州国建国の無効と、日本軍の撤退を求めて提訴された。
  • 結果として日本は、国際連盟から脱退することになった。

【参考文献】

  • 有馬学『帝国の昭和』(講談社、2002年)。
  • 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』(吉川弘文館、2007年)。
  • 勝田健太郎『戦前親日派外国知識人が見た満州事変』(『政治学研究』慶應義塾大学、2018年)。
  • 北岡伸一『外交と権力 日本政治史』(有斐閣、2015年10月)。
  • 北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』(筑摩書房、2012年)。
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勝田健太郎
近代日本史オタクのWEBマーケター。 慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。学生時代の卒業論文のテーマは「親日派外国知識人が見た満州事変」。