不戦条約って何?
戦争が違法化されたことで、日本はどのような影響を受けたの?
この記事では、昭和3(1928)年に成立した不戦条約の概要、成立の理由、その後の影響を解説します。
目次
パリ不戦条約とは何か?
出典:Wikipedia
不戦条約とは、 昭和3(1928)年8月27年にフランスのブリアン外相とアメリカのケロッグ国務長官のイニシアティブにより、国策としての戦争の放棄と、平和的な紛争解決を定めた条約のことです。
条約の正式名称は「戦争放棄に関する条約」といい、フランス・パリで採択署名されました。
当時としては史上最多の63か国によって批准されます。
この条約によって、国際紛争を解決するため、あるいは国家の政策の手段として、戦争に訴えることは禁止されることになり、あらゆる国家間の紛争は平和的手段のみで解決をはかることが規定されました。
パリ不戦条約成立までの経緯
不戦条約は、発案国のフランスと、最初に調印を提案されたアメリカとの二国間によって行われていました。
当初アメリカは、二国間同盟の締結を避けることを伝統的な方針としていたので、アメリカの国務長官フランク・ケロッグは、条約の加盟を二国間にとどめることなく、各主要国へと広げることをフランスに提案しました。
結果、アメリカ側の提案をもとにした「全ての戦争を禁止」するという不戦条約への加盟交渉がアメリカを主体として行われていきました。
フランク・ケロッグ国務長官(出典:Wikipedia)
パリ不戦条約が発布され「戦争が違法化」された背景・理由
国際紛争の解決、国家の政策の手段としての戦争を禁止としたパリ不戦条約ですが、この条約が締結されるまでは、あらゆる戦争が合法とみなされる「無差別戦争」の時代でした。
国家間の紛争を解決する手段としての戦争や、武力行使、武力による威嚇が認められていたのです。
1853年、ペリー提督が黒船を率いて来航し、武力の威嚇によって江戸幕府に開国を迫ったこと。
1875年、明治政府が江華島水域に雲揚号を派遣して測量を行い、朝鮮側から砲撃を受けたことを機に応戦して付近を占領した末、日朝修好条規の締結を迫ったことも、当時の国際法の考えにのっとると違法ではありませんでした。
それまでの「戦争に訴えるのは国家の自由である」という考えから転換がはかられていくきっかけとなったのが、第一次世界大戦です。
第一次世界大戦時のアメリカの陸軍募集ポスター(出典:Wikipedia)
この大戦で各国が大きな被害を受けたことから、平和維持のための機関として国際連盟が結成され、軍事同盟によらない戦争防止の方策が模索されるようになりました。
そして、自衛のための戦争を除いて、領土拡張のための戦争、勢力圏拡大のための戦争、制裁、報復のための戦争などを国際的に初めて違法とみなす不戦条約が締結されました。
パリ不戦条約の加盟国一覧
パリ不戦条約は、当時としては史上最多である63か国によって批准されています。
まずはアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後1934年までに63か国が批准国となりました。
パリ不戦条約の影響と2つの問題点
不戦条約は国際連盟には不参加だったアメリカ合衆国やソビエト連邦も条約に締結したため、平和維持に大きな期待が寄せられました。
しかしこの条約には大きな問題が残されていました。
- 「自衛戦争」なのか「侵略戦争」なのかを区別できないまま、次の戦争に突入した
- 戦争を違法とした条約の実行力が確認された
影響と問題点1.「自衛戦争」なのか「侵略戦争」なのかを区別できないまま、次の戦争に突入した
不戦条約では、国際紛争解決のための戦争、国家政策の手段として行う戦争を禁止していました。
しかし、違法な戦争を強行した国への罰則や制裁の取り決め、さらに自衛戦争なのか侵略なのかを認定する方法をもてなかったという問題点を抱えていました。
そのため、この宣言の3年後に日本は中国に攻め入り、4年後にはイタリアがエチオピアに侵攻、さらに4年後にはドイツがポーランドとヨーロッパの大部分に侵攻しました。
その時点で、かつて戦争を放棄するためにパリに集まった国々はアイルランドを除いて、すべて戦争状態となってしまったのです。
影響と問題点2.戦争を違法とした条約の実行力が確認された
第二次世界大戦の犠牲者数は、第一次世界大戦の5倍、7000万人という想像を絶する数に及びました。
悲惨で破壊的な第二次世界大戦を防ぐことができず、不戦条約の限界が明らかになりました。
それでも全くの無駄というわけではありませんでした。
というのも、条約を破った国は処罰を受け、侵略した土地は返還させられ、責任者は戦争犯罪人として個人的にも処罰され、結果的には戦争を違法とした条約の実行力が確認されたからです。
パリ不戦条約の日本国内の反応と批准理由
日本政府としては、戦争を禁止する国際的な取り組みには積極的ではありませんでした。
なぜなら当時の日本にとっての最大の関心ごとは、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)や山東出兵といった、中国問題を中心としていたからです。
また不戦条約の実効性については学者や評論家のあいだでは懐疑的で、「第一次世界大戦前の国際軌範が依然として有効である」という考えが支配的でした(
。しかし、第一次世界大戦の戦勝国として大国の仲間入りを果たした日本にとって、英米諸国が主導する世界的な国際協調の仲間入りを果たす必要があったのです。
日本の敗戦後に成立した、日本国憲法第9条第1項は不戦条約第1条の文言がモデルになっており、今もなお不戦条約の名残は色濃く残っています。
パリ不戦条約のまとめ
- 1928年に当時としては史上最多の63か国が批准した不戦条約は、国際的紛争の解決のための戦争や、国家政策の手段として行う戦争を禁止した。
- 不戦条約には、違法な戦争を強行した国への罰則や制裁の取り決め、さらに自衛戦争なのか侵略なのかを認定する方法がなく、第二次世界大戦を防ぐことはできなかった。
- 日本政府は戦争を禁止する取り組みに積極的ではなかったが、国際協調路線を保つために不戦条約に批准した。