国際連盟ってどんな機関だったの?
なぜ日本は国際連盟から脱退することになったの?
目次
国際連盟の概要と「日本の国連脱退」について
▲国際連盟の旗(出典:Wikipedia)
国際連盟(League of Nations)とは、大正9(1920)年にスイス・ジュネーブにて発足した国際平和機構です。
日本は発足当時から、国際連盟の常任理事国として中心的な役割を担っていました。
しかし日本は昭和8(1933)年3月8日に脱退を決定することになり、同月27日に国際連盟に脱退を通告します。
できごと | 年月日 |
国際連盟脱退の決定 | 1933年3月8日 |
国際連盟脱退を国際連盟に通告 | 1933年3月27日 |
国際連盟脱退の正式発行 | 1935年3月27日 |
国際連盟は第一次世界位大戦後に発足
国際連盟は、第一次世界大戦後の国際平和を維持する目的で、アメリカのウィルソン大統領の提唱で成立しました。
発足当時はイギリス・フランス・日本・イタリアの常任理事国と、4非常任理事国(のち9ヶ国)で構成されました。
国際連盟は終戦後の1945年の10月24日に現在の「国際連合」へと継承され、1946年4月20日に解散します。
歴代の日本人の国際連盟事務次長
氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 |
---|---|---|
新渡戸稲造 | 1920年1月10日 | 1926年12月6日 |
杉村陽太郎 | 1927年19日 | 1933年3月27日 |
国際連盟の常任理事国と加盟国の一覧
常任理事国 | 備考欄 |
---|---|
イギリス | |
イタリア | 1937年脱退 |
ソビエト社会主義共和国連邦 | 1937年除名 |
日本 | 1933年脱退 |
ドイツ | 1933年脱退 |
フランス共和国 |
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日本の国際連盟脱退のきっかけとなった4つの理由
引用:『国際聯盟年鑑』 (朝日新聞社、1934年)
- 日本の満州行動と満洲国建国が引き金となった
- 満州にリットン調査団が派遣された
- 熱河作戦の実施
- 昭和8年にリットン調査団による報告書が採択された
理由1.日本の満州行動と満洲国建国が引き金となった
国際連盟脱退の3年前、昭和6(1931)年に満州事変が勃発します。
当時日本は世界恐慌などの影響で、とくに農村部は貧困にあえいでいました。
そこで、中国大陸・満州の資源を獲得する目的で日本の関東軍は事変を引き起こしたのです。
結果として、事変の翌年の昭和7(1932)年には満洲国が成立しました。
理由2.満州に『リットン調査団』が派遣された
しかし日本は、中国側から国際連盟に(1)満州国建国の無効と、(2)日本軍の撤退を求めて提訴されます。
これを受けて、国際連盟からリットン調査団が事変の検証のため満州に派遣されました。
理由3.熱河作戦の実施
満州事変以降、世界から日本への視線が集まるなか、日本はさらに熱河省の地から国民革命軍を追い出す軍事行動に出たのです(熱河作戦)。
この作戦は、「国際連盟に対する侮辱である」と国際社会から理解されました。
この作戦に関して、日本の満州行動を擁護していたコロンビア大学教授のF.Rエルドリッヂ氏でさえも「罪は満州侵略ではなく、国際連盟を蔑視したという事実である」との指摘をしています 。
理由4.リットン調査団による『報告書』が国連で採択された
昭和7(1932)年10月2日に公開されたリットン調査団による報告書では、リットン調査団は日本の満州の権益を認めつつも、満洲国の建国は否認しています。
これに対して日本は「日本の軍事行動は居留民の声明・財産保護のため」であったとして、報告書に意義を唱えました。
しかし、昭和8(1933)年2月24日に行われた連盟総会では、賛成42:反対1(日本)の状況で、日本以外の全加盟国は満洲国を否認しました。
この決議を受けて、国際連盟の日本代表の松岡洋右(まつおか・ようすけ)は、議場から退場します。
▲松岡洋右(出典:国立国会図書館 近代日本人の肖像)
国際連盟脱退の日本国内の反応
▲国際連盟脱退を伝える東京朝日新聞の紙面(出典:Wikipedia)
国際連盟を脱退し、連盟総会から帰国した松岡洋右は熱烈な歓迎を受けました。
なぜなら「日本の行為は正当であり、連盟の対応は不当である」という論調が国内にあったからです。
また昭和7(1932)年12月19日には、132社の新聞社が連名で国際連盟の認識不足を指摘し、満洲国非承認は認めない「共同宣言」を発表しています
。国際連盟脱退による日本の影響
- 『1935年・1935年の危機』
- 新聞・世論は国連脱退を支持、結果として孤立の道に
影響1.『1935年・1936年の危機』
1935年3月に国際連盟を脱退することになり、日本の各紙面では「1935年・1936年の危機」という言葉が使われるようになります。
日本は国際連盟の脱退と、その翌年にワシントン・ロンドン両軍縮条約が1936年末で期限満了となるなど、「日本は今後どうなるのか」という危機意識が持たれていたのです。
生命線維持の為に、日本は国際連盟を脱退した。今や世界は日本を凝視してゐる。
危機1935-6年の日本はどうなる?
雨か、風か、将た嵐か、帝国日本の興廃を決する絶大の危機である。
廣田重太 『一九三五~六年の認識 : 国際の危機!日本はどうなる?』(昭和9年、廣田文庫、2頁)
しかし1935年になる頃には、『危機』を論じる記事は大きく数を減らしていきます
。また実際にこの言葉が喧伝された昭和8(1933)年から昭和9(1934)年にかけての日本は、対内的にも対外的にも危機と呼べるような事項は存在していません
。影響2.新聞・世論は国連脱退を支持、結果として孤立の道に
そもそも国連脱退のきっかけとなった満州事変は、国力を増強する目的で行われました。
しかしその行動と満洲国の建国が国際社会から否認されると、1920年代の国際協調よりも国益が重視されるようになります。
国際連盟脱退に関するおすすめの本・書籍
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日本の国際連盟脱退のまとめ
- 国際連盟は第一次世界大戦後に発足した世界初の国際平和機構
- 日本は常任理事国として中心的な役割を担っていた
- しかし1931年3月の満州行動が引き金となり、日本は国際的に非難されることとなる
- リットン調査団が満州に派遣され、国際連盟によって日本の満洲国建国は否認される
- 国際連盟の判断は日本の国益と反していることから、日本は国際連盟を脱退することとなる
参考文献
- 野村宗平「日本の国際連盟脱退をめぐる新聞論調」(『愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告』、5号、2010年)。
- 渡部昇一『全文 リットン報告書』(ビジネス社、2006年)。
- Francis Reed Eldridge (1933). Dangerous Thoughts on the Orient, D. Appleton and Company.4r
- 廣田重太 『一九三五~六年の認識 : 国際の危機!日本はどうなる?』(昭和9年、廣田文庫)。