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盧溝橋事件とは何か?
盧溝橋事件とは、昭和12(1937)年7月7日に中国北京郊外の盧溝橋で発生した日本軍と中国国民党軍とのあいだの武力衝突事件です。
夜10時40分ごろ、夜間演習中の日本軍が十数発の銃声を聞いたことをきっかけに、日本と中国は8年に及ぶ戦争へ突入していきました。
盧溝橋事件が起きた時代的背景
盧溝橋事件が起きる前から、日本軍と中国軍の間には緊張が高まっていました。
日本軍は天津に駐屯させる兵力を急増させており、中国側からすると、満州を侵略し終えた日本が新たに中国北部を支配下に置こうとしているのではないか、と反発を招いていたのです。
一方中国国内はというと、蒋介石の国民政府軍と毛沢東の中国共産党軍が権力争いを繰り広げていました(国共内戦)。
しかし1936(昭和11)年の西安事件をきっかけに、蒋介石は共産党軍への攻撃をやめ、内戦を停止。
国民政府軍と中国共産党軍は抗日統一戦線を結成して、協力して日本と戦う方針に変更します。
中国への進出の機会をうかがう日本と、国内を1つにして日本に対抗しようという中国の間には一触即発の雰囲気がただよっていて、互いの悪感情や不信の念がからみ合い、何かがあればやってやろうという雰囲気になってしまっていたのです。
これが盧溝橋事件を引き起こし、事態を収束できなかった原因でした。
盧溝橋事件の当日の様子・きっかけ
「どんなきっかけで盧溝橋事件は発生したの?」
「そもそもなぜ、交戦状態になる必要があった?」
この項目では、盧溝橋事件の当日の様子から、事件の発生のきっかけとなった出来事を紹介します。
盧溝橋事件の当日の様子
昭和12(1937)年7月7日、この日、日本軍は盧溝橋の近くで夜間演習を行っていました。
午後10時半に演習が終わり、清水節郎大尉が「集合」の伝令を伝達した少し後、実弾が日本軍めがけて撃ち込まれます。
これは中国軍がいる竜王廟付近の方向からでした。
危険を感じた清水大尉が部下に集合ラッパを吹かせたところ、今度はラッパ目がけて実弾が数十発撃ち込まれます。
日本軍に向けた銃撃はその後も散発的に行われました。
日本軍は盧溝橋付近の中国兵の撤退を要求しましたが、その間にも中国側からの攻撃があったため、自衛のために応戦し、竜王廟を占拠します。
盧溝橋事件の事件発生場所の概要
事件が起きた盧溝橋は、1189年に北京郊外を流れる永定河にかけられた橋で、マルコ=ポーロも渡ったことが『東方見聞録』に書かれている名所です。
現代の盧溝橋(出典:Wikipedia)
銃声が響いたとき、この場所で夜間演習を行っていたのが、天津に駐屯していた日本軍でした。
この頃の北京周辺には、義和団事件(中国による欧米列強への反乱)をきっかけに自国民を保護する名目で、日本だけでなく、アメリカ・イギリス・フランスなど各国の軍隊が駐留していました。
しかし他国の軍隊がほとんど撤兵していたにもかかわらず、日本軍は人数を増やし、中国軍を挑発するように演習を続けていました。
盧溝橋事件のきっかけ
日本軍に向けて最初に実弾を放ったのはだれだったのか、真実はいまだに分かっていません。
中国側は日本軍が意識的に攻撃を仕掛けてきたのだと主張し、日本は中国側の攻撃だったと主張しています。
当時北平(北京のこと)大使館付武官輔佐官であった今井武夫少佐は、日本軍の仕業ではないとしたうえで、恐怖心にかられた中国兵の過失による発砲騒ぎ、または抗日意識に燃えた中国兵の日本軍に対する反感が昂じて発作的に発砲したのが他の同輩を誘発したことなどは、どれもいかにもありそうな状況であり、あり得ることであったと述べています。
盧溝橋事件は、当初日中ともに停戦を求め、事件の拡大を防ごうとしていたため、計画して行われたのではなく、偶発的に起きてしまったのではないかという見方もあるようです。
盧溝橋事件の国内外の反応
盧溝橋事件の国内の影響
盧溝橋事件が起きた当初、日本陸軍全体の作戦を担当する参謀本部は、事件を拡大させないよう指示を出しました。
陸軍にとっては、中国との全面戦争よりも、満州の経営やソ連の脅威に対抗する力をつける方が大事だったからです。
しかし、陸軍の一部には強硬派もいました。
彼らは、何かきっかけがあれば中国を叩こうという気持ちがあり、中国は対日武力戦争を準備しているから、事態が悪化拡大したときに備えて派兵すべきと主張します。
国内は「派兵すれば全面戦争になる可能性があるため派兵をしない」という意見と「事態が悪化し戦闘になったときのために派兵すべき」という意見で分かれました。
時の首相であった近衛文麿は、派兵を決定します。近衛首相は事態を楽観しており、日本が威力を示せば中国は屈伏するのではないかと考えてしまったのでした。
日本の中国派兵が決まると、中国側も対日戦争へと舵を切ります。戦争ムードが一気にあおられ、日本は中国との泥沼ともいえる全面戦争を行い、解決方法を模索するも挫折し、結局は日米戦争へと突入していきました。
もてる力をすべて使い果たし、多くを失った戦争へと突き進んでしまったきっかけが、盧溝橋事件の対応にあったのです。
盧溝橋事件が中国に及んだ影響
盧溝橋事件以前の中国は、国内で政権争いを繰り広げていました。
国民政府軍を率いる蒋介石は、満州事変のときでも、敵を日本軍と定めるか、国内の共産党勢力とするかの選択で、共産党勢力の根絶を優先させています。
しかし盧溝橋事件の前年に起きた西安事件によって、蒋介石は中国共産党軍への攻撃を停止しました。
中国国内で争うよりも、国を守るために日本と戦おうという気持ちを固めたときに、盧溝橋事件が起きたのです。
事件を日本側による挑発と考えた蒋介石は、度重なる日本軍の華北での行動に我慢の限界を超え、「われわれは弱国であるが、最後の関頭に臨んだならば全民族の生命をかけて国家の生存を救うべきである。最後の関頭に至れば、あらゆる犠牲を払っても徹底抗戦すべきである」という「最後の関頭(瀬戸際)」演説を行いました。
盧溝橋事件は、中国を対日全面戦争へと踏み切らせるきっかけとなったのです。
盧溝橋事件のその後の影響
盧溝橋事件以前は、日中の紛争は局地的・限定的なもので、国民の一般の日常生活に深刻な影響を与えるほどではありませんでした。
しかし事件以降は、それが一変します。
人的・物的資源の量とその損耗度も飛躍的に増大し、100万におよぶ大軍と百数十億の巨額の戦費を投じても足りない全面戦争へと突入していきました。
盧溝橋事件のまとめ
- 盧溝橋事件とは、昭和12(1937)年7月7日に中国北京郊外で発生した日中両軍の武力 衝突事件。
- 北京郊外の盧溝橋で、夜間演習をしていた日本軍に向けて実弾が発砲されたことが事件のきっかけ。
- 日中両軍とも停戦に向けた動きがあったものの、日本の近衛文麿首相が中国への派兵を決定すると、事態は悪化の一途をたどっていった。
- 西安事件によって内戦をやめた国民政府軍と中国共産党軍は、盧溝橋事件をきっかけに抗日統一戦線を結成し、対日全面戦争へと踏み切っていく。
・盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまり、日本の政治や経済は戦争を軸に動いていき、人的・物的資源を損耗させていった。