『日本資本主義の父』と称される渋沢栄一。
2021年には渋沢を主人公した大河ドラマが始まるほか、2024年に渋沢栄一が描かれた新しい1万円札に切り替わるなど、いま渋沢に注目が集まっています。
徳川慶喜に仕えた20代、
日本初の株式会社の設立、
ノーベル平和賞への2度のノミネート。
この記事では、日本社会に数々の功績を残した渋沢栄一の生涯や功績をわかりやすく紹介します。
目次
渋沢栄一の年表
西暦(年齢) | 出来事 |
1840年(0歳) | 武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市)に生まれる |
1863年(23歳) | 尊王攘夷思想に影響を受け、高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都へ出奔 |
1864年(24歳) | 一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に仕える |
1866年(26歳) | 徳川慶喜が征夷大将軍となったことに伴い、幕臣となる |
1867年(27歳) | 徳川昭武(徳川慶喜の弟)に随行し、パリ万博使節団としてフランスへ出立 |
1869年(29歳) | 静岡藩に「商法会所」設立。その後明治政府に仕え、民部省租税正及び民部省改正掛掛長となる |
1873年(33歳) | 大蔵省を辞める |
1875年(35歳) | 第一国立銀行頭取となる。東京会議所会頭兼行務科頭取となる |
1878年(38歳) | 東京商法会議所会頭となる |
1879年(40歳) | 東京府養育院院長となる |
1909(69歳) | 多くの企業及び諸団体の役職を辞任する |
1916年(76歳) | 第一銀行頭取等を辞任し、実業界から引退する |
1931年(91歳) | 死去 |
渋沢栄一の経歴
渋沢栄一の幼少時代
1840年、武蔵国榛沢郡血洗島(現・埼玉県深谷市)の由緒ある家柄に生まれました。
渋沢家は畑作、養蚕の他、藍玉の製造・販売を行なって財をなし、渋沢栄一は家業を手伝いながら父親の経営手法をみて育ちました。
経済学を学校で学ぶこともない時代、こうした幼少時代の経験によって、商売のノウハウや経済観の素地を身につけたと考えられます。
また、6歳ごろから漢学に親しみ、従兄弟の尾高惇忠から四書五経などを学びました。
20歳を過ぎてからは、農閑期(農業の仕事がひまな時期)に江戸の漢学者の塾へも通いました。幼い頃から親しんだ儒教の教えは、その後も渋沢の行動指針となります。
徳川慶喜に仕えた20代
1866年(慶応2年)頃 の徳川慶喜(出典:WIKIMEDIA COMMONS)
23歳ごろ、尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城の乗っ取りや横浜焼き討ちなどを企てますが、未遂に終わります。
渋沢や京都へ出奔後、江戸遊学の際に交際のあった一橋家家臣の推挙により一橋慶喜に仕えることとなります。
その後一橋慶喜が15代将軍に就任し、幕臣となりました。
その際、慶喜の実弟である昭武を代表とした幕府使節団をパリ万国博覧会に派遣することとなり、27歳の渋沢は洋行の機会を得ました。
約1年半欧州諸国に滞在し、先進国の経済システムや慈善事業のあり方などを学びました。
日本初の株式会社の設立
欧州から帰国した頃には、江戸幕府はもはやなく、元号は明治となっていました。
渋沢は大政奉還を終えた徳川慶喜が謹慎生活を送る静岡藩へ向かい、日本初の株式会社といわれる「静岡商法会所」を設立しました。
その業務は、京阪その他で米穀肥料などを買入れ、これを静岡の市場に売却したり地元の村へ貸与したりするなど、銀行と商社を兼ね合わせたようなもので、地元の経済発展に貢献しました。
官僚時代
大蔵省時代の渋沢栄一(出典:WIKIMEDIA COMMONS)
29歳ごろ、静岡商法会所の実績などを受け、明治政府からの出仕命令が降りました。
明治政府では、民部省租税正(いわゆる主税局長のような役割)の業務を行いました。
同時に、調査・研究から政策立案にあたる組織である「改正掛(かいせいがかり)」の掛長を担います。
改正掛では、度量衡の単位統一、近代的な郵便制度の確立、貨幣制度の整備、「国立銀行条例」の制定、鉄道敷設、太陽暦の導入、株式会社普及に向けたマニュアル類の発行など、新しい社会基盤の整備に着手しました。
多大な仕事をなした渋沢ですが、大蔵省の任官時に軍備拡張のための歳出を要求する方面と意見が分かれ、33歳の頃官僚を辞任します。
実業家時代
渋沢は、まず第一国立銀行の総監役、のちに頭取となりました。
これを出発点に、株式会社を普及させ、様々な分野の企業を立ち上げ、晩年にはその指導にあたりました。最盛期には20〜30の会社役員を務めていたとされます。
また、企業間の意見交換の場として、現在の商工会議所や銀行協会、株式会社としての企業普及をはかるためには株式取引所も設立に導いています。
社会福祉への取り組み
実業界で活動する他方、渋沢はホームレス救済、老人養護、児童養護、更生施設などの役割を果たした東京養育院において、長きにわたり事務長や院長をつとめました。
また、東京慈恵会や日本赤十字の設立・支援に携わったほか、関東大震災の際には、「大震災善後会」を設置し寄付集金に奔走しました。
教育面では、商法講習所(現・一橋大学)や大倉商業学校(現・東京経済大学)、東京女学館や日本女子大学に関与し、当時はあまり一般的でなかった実業教育及び女子教育に尽力しました。
渋沢栄一の晩年
実業界を退いてからは、民間外交に取り組みました。
とくに明治後半から悪化していた日米関係の修復につとめ、この活動で2度ノーベル平和賞の候補にもなっています。
晩年まで精力的に活動した渋沢は、昭和6(1931)年11月11日、92歳で永眠しました。
渋沢栄一の功績と影響
関わった企業は500社以上。「実業の父」としての渋沢栄一
金融、交通・通信、商工業、インフラなど、社会に欠かせない幅広い分野の企業の創設・運営に携わりました。
生涯かかわった企業の数は約500社にのぼるといわれます。
渋沢が関与した企業の一覧
- 日本銀行
- 日本郵船
- 東京地下鉄道
- 日本航空輸送
- 東京海上火災保険
- 大阪紡績
- 王子製紙
- 東京瓦斯
- 東京電力
- 帝国ホテル
- 帝国劇場
- 東京株式取引所
社会貢献活動の先駆者
江戸幕府が崩壊したあと、貧しい農民が地方から流入するなどして当時の東京は貧民が多くを占めましたが、社会的弱者に対する明治政府の施策は十分ではありませんでした。
こうした状況のなか、困窮者の救済は社会を治める上での義務であるとして、渋沢は社会福祉分野にも注力しました。
東京養育院をはじめ、生涯関わった社会福祉や教育関連の組織は約600にのぼるといわれます。
2024年には渋沢栄一が新1万円札の顔に
現在の日本銀行券が発行されるのは2023年までで、2024年以降は新しい肖像が印刷される予定になっています。
2024年から千円札は北里柴三郎、五千円札は津田梅子、そして一万円札は渋沢栄一の肖像となります。
- 一万円札:福沢諭吉→渋沢栄一
- 五千円札:樋口一葉→津田梅子
- 千円札:野口英世→北里柴三郎
渋沢栄一の主な書籍
『論語と算盤』(1916)
渋沢の経済活動や社会福祉活動に共通して見られる理念は、公益の追求でした。
こうした渋沢の考え方の中心は、企業の目的が利潤追求であることは間違いないですが、その根底には道徳が必要であり、国や人類全体の繁栄に対して責任を忘れてはならないとする「道徳経済合一」の思想でした。
同書をとおして、『論語』の教えを生涯の行動指針とした渋沢の思想にふれることができます。
渋沢栄一のまとめ
- 日本初の銀行の設立、株式会社の普及、多様な分野の企業の設立・支援等、日本の経済システムの確立に尽力した。
- 渋沢の経済活動の根底には、企業活動の根底には道徳が必要であり、国や人類全体の繁栄に対する責任があるとする「道徳経済合一」の思想があり、常に公益の追求を忘れなかった。
- 福祉や教育・文化等にかかわる社会貢献事業を行ない、晩年は国際親善活動にも携わった。
参考資料
- 井上潤『渋沢栄一 近代日本社会の創造者』(山川出版社、2012年)
- 「渋沢栄一の生涯と東京商工会議所」東京商工会議所ウェブサイト
- 「渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図」渋沢栄一記念財団ウェブサイト
- 「日本資本主義の父 渋沢栄一」神奈川県立図書館ウェブサイト