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昭和の戦争・事件

日本はなぜ宣戦布告し、真珠湾攻撃をしたのか?パールハーバー攻撃の理由や真相をわかりやすく解説

真珠湾攻撃

「真珠湾攻撃の真実を知りたい」

「アメリカは事前察知していたというけど、それは本当のことなの?」

「なぜ真珠湾が攻撃されたの?」

昭和16(1941)年12月8日、日米開戦の火ぶたが切られました。

攻撃の対象となったのは、ご存知アメリカ・ハワイの真珠湾(パールハーバー)でした。

先生
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アメリカでは「リメンバー・パールハーバー」のスローガンが掲げられ、日米戦へと傾くきっかけととなった真珠湾攻撃。

この記事では、真珠湾攻撃の概要やその後の影響について解説します。

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目次

真珠湾攻撃とは何だったのか?

真珠湾攻撃とは日本の海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と真珠湾基地に対して行った攻撃のことです。

結果としては日本の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈させることに成功しました。

この真珠湾攻撃をきっかけとし、日米戦が始まります。

真珠湾攻撃の概要
年月日:昭和16(1941)年12月8日(ハワイ時間12月7日)
場所:アメリカ合衆国ハワイ州(当時はアメリカ合衆国の準州)オアフ島真珠湾
結果:日本の勝利

真珠湾攻撃に至った理由・経緯

なぜ日本は真珠湾を攻撃をしたのでしょうか。

この項目では以下の3つの理由と経緯について解説します。

真珠湾攻撃に至った理由・経緯
  1. 理由1.アメリカと日本の対立が始まる
  2. 理由2.対米開戦論が日本国内において高まる
  3. 理由3.ハルノートで満州事変以降の日本の外交政策が否定され、開戦を決定

理由1.1930年代にアメリカと日本の対立が始まる

1930年代のアメリカ社会は、とくに反日の姿勢が見られた時期でした。

なぜならフィリピン〜ハワイと領土を拡大していたアメリカは、つぎの目標として中国・満州の進出を目指していたのにもかかわらず、日本が満州地域の領土を拡大していったからです。

アメリカの鉄道王ハリマンの満州鉄道買収計画が日本によって拒まれると、日系人への迫害が始まります。

そして昭和6(1931)年9月、日本が引き起こした満州事変が、日本とアメリカの対立の引き金になりました。

先生
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もちろんアメリカ全土で反日ムードが漂っていたわけではなく、ウィルソン元大統領の信任者エドワード・マンデル・ハウス大佐など、日本を擁護した親日派アメリカ人も少数派ながら存在していました。
満州事変
満州事変とは?目的やきっかけ、原因となった関東軍の理由をわかりやすく整理しました1931年9月18日午後10時20分、近代日本史の転機となる「満州事変」が発生しました。「満州事変の目的・原因は?影響を簡単に知りたいのだけど、どういう経緯で満洲事変は発生したの?」といった疑問に簡単にわかりやすく答えながら、関東軍が引き起こした事件の真実・真相を探ります。...

理由2.対米開戦論が日本国内において高まる

日本は資源をアメリカからの輸入に頼っており、関係修復が望まれ日米交渉が始まりました。

しかし日本が自給自足ブロック建設を目指し、仏印(フランス領インドシナ)への進駐が始まると自体は一変します。

アメリカによって在米日本人の資産が凍結され、昭和15(1940)年の8月には対日石油輸出の中止措置がとられたのです。

以降日本の物資の欠乏は深刻化し、「ジリ貧状態」を打破するために日米開戦が叫ばれるようになります。

理由3.ハルノートで満州事変以降の日本の外交政策が否定され、開戦を決定

ハルノート

アメリカ政府も日米戦を避けることはできないと判断し、昭和16(1941)年11月26日にアメリカのハル国務長官が日本側に対案を渡します。

いわゆる「ハルノート」と呼ばれる提案書には、以下の4つの項目が提示されました。

ハルノートの内容
  1. 米英中ソ日などの間の多変的不可侵条約の締結
  2. 仏印の領土主権の尊重
  3. 中国。仏印からの一切の日本軍・警察力の撤退
  4. 国民政府以外の不承認、日独伊三国同盟の空文化

(参考:鳥海靖『日本の近代 国民国家の形成・挫折と発展』、放送大学教育振興会、2013年、222頁)

ハルノートは日本の満州事変以降の日本の外交政策を完全に否定した内容で、日本側はこれを最後通牒としてみなし、同年12月1日の御前会議において開戦が決定されます。

真珠湾攻撃の真の目的は「アメリカの戦意喪失」

真珠湾攻撃が行われる前年の昭和15(1940)年の日本の名目GDPは368億円、アメリカの名目GDPは1014億ドル(1ドル4円の時代なので約4,056億円)と、圧倒的な国力の差がありました(参考)

そのため、当然日本国内においても対米戦が長期にもちこめば日本の勝ち目はないと考えられていました。

そこで山本五十六(やまもと・いそろく)連合艦隊司令長官は、開戦と同時に徹底的にアメリカ艦隊を打ちのめすことで、アメリカの戦意を喪失させることを目標にしたのです。(参考)

「敵に大損害を与えれば、そのうち講和のきっかけがあるだろう」という目論見が、この作戦にはありました。

なぜ「真珠湾」が攻撃の対象となったのか

真珠湾は、航空兵力に対して脆弱(ぜいじゃく)な基地として認識されていました。

アメリカ軍のなかでも1930年代初めから、真珠湾の脆弱性については検証されていました。

開戦直前の真珠湾(1941年10月、開戦直前の真珠湾、出典:Wikipedia

米国内でも真珠湾攻撃に対する防衛が重要な課題となっていたなか、日本軍によって攻撃が行われたのです。(参考)

真珠湾攻撃に対する海軍の反応

海軍軍令部

反応1.当初は計画を投機的として反対

真珠湾攻撃を目的とした「ハワイ計画」を、海軍軍令部は投機的として反対していました。

なぜなら、真珠湾に到着する前にアメリカ軍に発見され、迎撃されるだろうと考えられていたからです。

また大量の空母をハワイ計画に投入されたら、当時計画としていた南方資源の獲得に支障が出ると考えられていました(参考)

反応2.見通しが不明なまま開戦に至った

一方で、日本とアメリカの軍艦の比率は日米開戦直前がもっとも有利な時期で、今のうちに戦争をすべきという焦りが海軍にありました。

そのため、3年先の戦争の見通しは不明」という判断のなかで、軍備拡充が進められていきました。

歴史学者の森山優氏はこの決定を、「仮に現有戦力で日本が短期的な勝利をおさめたとしても、数年後には圧倒的な大兵力を揃えたアメリカに惨敗する可能性が高いことに、思い至るはずである。(中略)問題は長期的視野に立ってそれ(作戦担当者)を抑える政治の力が欠けていたことだった」と指摘しています(参考)

アメリカは日米開戦を事前察知していたのか

ハル国務長官は、日本がハルノートを受け取ったらどのような行動に出るか、つまり日米開戦が起こりうることは承知していました。

またローズヴェルト大統領も、最初の一弾をいかに日本に撃たせるかに関心があり、「アメリカの考えに賛同しないかぎり、日本が戦争を仕掛けてきても止むを得ない」という認識が持たれていたのです(参考)

またそれ以前の昭和16(1941)年1月の段階で、真珠湾攻撃の計画は駐日大使のグルー大使の耳に入っていました。

実際に山本五十六が真珠湾攻撃を構想を明かしたのは同年1月下旬だったので、この時点では「噂」に過ぎませんが、本当に警戒されていたのは、奇襲よりも在米日系人による破壊活動でした。(参考)

アメリカ陸軍は、11月28日にハワイ方面軍西部に対して資産や財産に対する防護を指示し、重要施設の防護を要請しています(参考)

真珠湾攻撃以降の日本

先ほど述べたように、敵に大損害を与えれば、そのうち講和のきっかけがあるだろうと見ていました。

そのような考えのなかで行われた真珠湾攻撃は緻密な計画によって成功しましたが、その後効果的な対応が取れなくなり日本は敗戦へと向かっていきます。

敗因は複数ありますが、真珠湾攻撃で航空戦の時代が訪れたことは証明されたのにも関わらず、巨大艦隊同士の決戦を「最高の戦法」として以降も引きずってしまったからです。(参考)

真珠湾攻撃に関するおすすめの本・書籍

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書籍1.松岡洋右と日米開戦 大衆政治家の功と罪

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【あらすじ】

国際連盟脱退や日独伊三国同盟締結など、日米開戦への原因をつくった外交官として、厳しく評価されている松岡洋右。しかし、現実の彼は日米戦争回避を図って行動していた。先見の明と己の才覚を武器に外相までのぼりつめた実力者が、なぜ意に反して日本を破滅的な戦争へ導いてしまったのか。複雑な内外の政治への対応を繙き、人物像を再評価する。

【目次】
松岡洋右という人物ー外交官・満鉄・代議士
現状打破で行き詰まった日本
「自主外交」から南進政策へ
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破綻した南進政策
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日米開戦の原因をつくった外交官として評価されている松岡洋右の人物像を知りたい人

書籍2日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」

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第三次近衛内閣から東条内閣まで、大日本帝国の対外軍事方針である「国策」をめぐり、陸海軍省、参謀本部、軍令部、外務省の首脳らは戦争と外交という二つの選択肢の間を揺れ動いた。それぞれに都合よい案を条文に併記しつつ決定を先送りして、結果的に対米英蘭戦を採択した意思決定過程をたどり、日本型政治システムの致命的欠陥を鋭く指摘する。

【目次】
第1章 日本の政策決定システム
第2章 昭和一六年九月の選択
第3章 なぜ近衛は内閣を投げ出したか
第4章 東条内閣と国策再検討
第5章 対米交渉案成立と外交交渉期限
第6章 甲案と乙案
第7章 乙案による交渉
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日米開戦の要因と経緯を詳しく知りたい人

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【あらすじ】

有沢広巳ら一流経済学者を擁する陸軍の頭脳集団「秋丸機関」が、日米の経済抗戦力の巨大な格差を指摘する報告書を作成したにもかかわらず、なぜ無謀な対米開戦を防げなかったのか。
焼却されたはずの秘密報告書から、「正確な情報」が「不合理な意思決定」につながっていく過程を克明に辿り、日本屈指のエリートたちが陥った「痛恨の逆説」を解き明かす。

【目次】
はじめに
第一章 満洲国と秋丸機関
満洲事変から太平洋戦争へ/陸軍省戦争経済研究班(秋丸機関)の創設/満洲国における秋丸次朗/秋丸次朗の国力認識/「陸軍版満鉄調査部」としての秋丸機関/有沢広巳の参加/「秋丸機関」の結成
第二章 新体制運動の波紋
新体制運動をめぐって/有沢広巳と経済新体制/秋丸機関の苦心/新体制運動の挫折がもたらしたもの
第三章 秋丸機関の活動
「班報」に見る秋丸機関の研究/秋丸機関の世界情勢認識/秋丸機関の研究手法/日本班の報告/研究の遅延/秋丸機関の「中間報告」
第四章 報告書は何を語り、どう受け止められたのか
昭和一六年前半の世界情勢/報告書の作成時期/報告内容についての証言の食い違い/報告書の「発見」/『英米合作経済抗戦力調査』の内容/重要なのは『独逸経済抗戦力調査』/報告書は何を伝えたかったのか/秘密ではなかった秋丸機関報告書の内容/報告書はどう受け止められたのか(1)――通説の問題点/報告書はどう受け止められたのか(2)――異説の問題点/「陸軍上層部への報告会」とは何なのか/北進か南進か/「北進させない」ためのレトリック/「対英米開戦」ではなく「対英米ソ開戦」の回避
第五章 なぜ開戦の決定が行われたのか
岩畔大佐と新庄大佐は何を伝えようとしたのか/陸軍省戦備課の判断/アクティブラーニングの一環だった総力戦研究所のシミュレーション/「正確な情報」は皆知っていた/なぜリスクの高い選択が行われたのか(1)――行動経済学による説明/なぜリスクの高い選択が行われたのか(2)――社会心理学による説明/硬化する世論と悩む指導者/「国際情勢の推移」に期待した開戦の決定/先の見通しが立たなかったからこそ始まった戦争
第六章 「正しい戦略」とは何だったのか
秋丸機関の「戦略」は有効だったか/日本とドイツとのすれ違い/陸軍と海軍の戦略不一致/根本的な問題(1)――日本の船舶の減少/根本的な問題(2)――アメリカの造船力の桁外れの大きさ/「日英米開戦」はどうすれば避けられ、経済学者は何をすべきだったのか
第七章 戦中から戦後へ
「一部の」報告書や資料の回収の可能性/ゾルゲ事件の影響/大本営での秋丸次朗と秋丸機関の「武村機関」化/秋丸機関の解散/その後の秋丸次朗/その後の武村忠雄/その後の有沢広巳
おわりに

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対米開戦を防げなかった理由を知りたい人

ABOUT ME
勝田健太郎
近代日本史オタクのWEBマーケター。 慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。学生時代の卒業論文のテーマは「親日派外国知識人が見た満州事変」。