五・一五事件はどのような理由で起きた事件なの?
その後の日本にどのような影響を与えたかを知りたい。
この記事を読めば、このような疑問を解決できます。
目次
五・一五事件とは何だったのか?
五・一五事件とは、1932(昭和7)年5月15日に、海軍の青年将校たちを中心に、陸軍の士官候補生や茨城の橘孝三郎率いる愛郷塾の農村青年らが起こした反乱事件です。
若い軍人たちによって、当時内閣総理大臣であった犬養毅が総理大臣官邸で殺害されました。
また、警視庁、牧野伸顕内大臣官邸、立憲政友会本部、日本銀行、三菱銀行、東京周辺の変電所、革新派の陸軍青年将校グループに影響力を持っていた西田税なども襲撃されました。
五一五事件の詳細
発生日 | 昭和7(1932)年5月15日 |
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事件概要 | 海軍青年将校らが総理大臣官邸などを襲撃 |
標的 | 政治家や財閥の有力者 |
死亡者 | 犬養毅、警察官1名 |
五・一五事件が起きた原因・理由
事件を起こした若い陸海軍の青年将校たちは、内閣の政策に対する強い不満を抱き、抗議のために反乱を起こしたと考えられています。
当時の日本がどのような状況だったのか、背景について探ります。
- 不況に対する危機感があった
- ロンドン海軍軍縮条約と上海事変への不満
五・一五事件が起きた理由1.不況に対する危機感があった
五・一五事件が起こる前、日本は世界恐慌のあおりを受けて昭和恐慌に突入、戦前の日本において最も深刻な不況の時代がおとずれます。
とくに影響を強く受けたのが農村で、米価はほぼ半分、繭価は三分の一に落ち込み、農家は生活が成り立たなくなるほど厳しい経済状況に追いやられました。
この頃には欠食児童(農家でありながら食べるものがなく、学校に弁当を持ってこられなくなった子ども)が社会問題となります。
農村出身の兵隊と接する機会の多かった陸軍の青年将校たちは、こうした農村の疲弊に強い危機感を抱いていました。
五・一五事件が起きた理由2.ロンドン海軍軍縮条約と上海事変への不満
また、事件の中心となった海軍の青年将校たちが政治への不満を大きくした出来事が、昭和5(1930)年4月に結ばれたロンドン海軍軍縮条約です。
国を防衛するために必要だと主張した艦艇の保有比率よりも少ない数値で条約が結ばれたため、海軍の中には条約を結んだ重臣、政党に対して激しい不満が湧き起こりました。
さらに、昭和7(1932)年の上海事変で、海軍からも多くの犠牲者を出したのにもかかわらず、勲章がなかったことも、不満を強める要因となったようです。
五一五事件の実行者の思惑
犬養毅暗殺の中心メンバーである海軍士官の三上卓は、「日本の政治は、政治家に人物なく、政党、財閥の結託に寄り政治家が国利民福を無視して私利私欲をほしいままにし」ていると考えていました
。彼以外にも若い軍人たちの中には、社会の貧困の問題を引き起こしている元凶は政党政治にあると考えていました。
そのため、政治の刷新をしなければ国家の存亡に関わるという危機意識が強くあったようです。
五・一五事件の当日の様子
五・一五事件で殺されたのは犬養毅首相だけですが、元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、侍従長鈴木貫太郎らも同様に狙われました。
国を変えようと意気込んだ青年将校たちは、いくつかの組に分かれて、一斉にテロを起こします。
- 第1班:首相官邸及び日本銀行の襲撃
- 第二班:牧野伸顕内大臣邸の襲撃
- 第三班とそのほかの班:立憲政友会本部の襲撃
第1班:首相官邸及び日本銀行の襲撃
一つ目の組は、海軍士官の三上卓らが中心となる9人で、午後5時半ごろ首相官邸に乗り込み、官邸にいた巡査を銃撃し、食堂にいた犬養首相のもとに殺到します。
三上は犬養を見つけると興奮のあまり装填し忘れていることにも気づかず、銃の引き金を引きました。
慌てて胸ポケットからバラ弾を取り出す三上に向かって、犬養は落ち着いた様子でした。
犬養は「君らはなぜこのようなことをする。まず理由を聞いたうえで、撃たなくてはならない事があるならば、その時に撃たれようじゃないか」と言い、一同を応接室に案内します。
犬養は自分の考えや、日本が置かれている状況を若い軍人たちに説き聞かせようと考えていたようです。
しかし、別の将校が「撃て!撃て!問答は要らん!」と叫び、犬養の腹部めがけて発砲。
三上も慌てて頭部を撃ち抜き、将校たちは逃走しました。
応接間に駆け付けた女中に向かって犬養は「今の若いもんをもう一度、呼んでこい。よく話して事情を聞かせる」と最後まで言論で説得しようとします。
しかし犬養の容体は悪く、その日の深夜に絶命しました。
第二班:牧野伸顕内大臣邸の襲撃
二つ目の組は、牧野伸顕内大臣邸を襲い、手榴弾を投げ込みましたが、牧野伸顕はいなくて無事でした。
第三班とそのほかの班:立憲政友会本部の襲撃
三つ目の組は、立憲政友会本部に手榴弾を投げたのですが、不発。
そのほか、この決起部隊に呼応して、橘孝三郎という人を中心とする愛郷塾のメンバーたちが東京の発電所を襲いました。
東京を暗黒にして何かをやろうとして、行ってみたはもののどうすればいいか分からず、結局失敗します。
五・一五事件の影響
五・一五事件は、その後の政治に大きな影響を与えました。
この時代、政財界の要人が狙われるテロ事件が相次いだことで、政治家も軍部や右翼を恐れるようになります。
本来であれば、暗殺で倒れた犬養の後継は同じ政党から出すことが望ましいのですが、異常な政治状況を考慮し、海軍大将斎藤実が内閣総理大臣に任命されました。
こうして政党政治は終わりを迎え、政党の代わりに軍部の発言力が増す時代が到来したのです。
まとめ
- 五・一五事件とは、1932年5月15日に陸海軍の青年将校らが中心となって起こしたテロ事件で、犬養毅内閣総理大臣が殺害された。
- 事件を起こした青年将校たちは、農村の不況や、ロンドン海軍軍縮条約締結など、当時の内閣の政治に対して強い不満を抱いていた。
- 五・一五事件によって政党政治は終わりを迎え、軍部の発言力が増していく時代が到来。