日独伊三国同盟とは?
なぜ日本はドイツとイタリアと手を結ぶことになったの?
目次
日独伊三国同盟とは?
日独伊三国同盟とは、昭和15年(1940年)9月27日に日本、ドイツ、イタリアの三国で締結された軍事同盟のことです。
この軍事同盟では、ドイツとイタリアのヨーロッパにおける「新秩序建設」および「指導的地位」と、日本の「大東亜」における「新秩序建設」および「指導的地位」が相互に承認されました。
「日独伊三国軍事同盟」と呼ばれる場合がありますが、どちらもは同じ同盟のことを指しています。
日独伊三国同盟の内容
- 日本はドイツとイタリアのヨーロッパにおける新体制を認める。
- ドイツとイタリアは日本が築こうとしている大東亜共栄圏を認める。
- 日本とドイツとイタリアのうち1ヶ国が攻撃された場合、ほかの2ヶ国は攻撃を仕掛けた国に宣戦布告し、軍事と経済援助をする。
日独伊三国同盟が結ばれるまでの経緯
なぜ日独伊三国同盟は結ばれたのでしょうか?
同盟締結までには以下の4段階の経緯がありました。
- 経緯1.仮想敵のソ連に対抗するために、まず「独ソ防共協定」が結ばれる
- 経緯2.「独ソ不可侵条約」が結ばれ、事態は悪化
- 経緯3.ドイツ軍の快進撃で、日本国内において「ドイツブーム」が招来
- 経緯4.第二次近衛文麿内閣で「日独伊三国同盟」が成立
経緯1.仮想敵のソ連に対抗するために、まず「日独防共協定」が結ばれる
ドイツと日本は、ともにソ連を仮想敵国としていました。
日本は昭和6(1931)年の満州事変以降、ソ連との武力衝突の可能性があったことから、ソ連の圧倒的な軍事力に対抗する必要があったのです。
一方ドイツは、昭和8(1933)年10月に、日本に続いて国際連盟を脱退し、ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し、軍備増強を進めていました。
ナチスドイツのヒトラーは、「総統」という地位を昭和9年に確立し、イタリアのファシスタ党とともにベルリン=ローマ枢軸を形成しました
。その直後にドイツと日本、両国の仮想敵のソ連に対抗するために「日独防共協定」が結ばれたのです。
さらに昭和13(1933)年にドイツは日本の傀儡国家「満洲国」を承認し、「日独防共協定」をさらに発展させた軍事同盟を築こうとし、日本との接近をはかりました。
そのため、日本と同盟関係を築こうとしたのです。
ちなみにドイツによる満洲国承認のニュースは日本国内でも歓迎され、各紙面はトップ記事で大々的に報じ、程度の差はあれど歓迎の姿勢を示しています
。経緯2.「独ソ不可侵条約」が結ばれ、事態は悪化
しかし親ドイツの機運に冷や水をかけたのが、昭和14(1939)年にドイツとソ連間で結ばれた「独ソ不可侵条約」でした。
ドイツとの防共(=共産化を防ぐこと)強化に務めていた日本にとって、共産主義国家のソ連とドイツが手を結んだ事実は、衝撃的な出来事として記憶されました。
このときの平沼内閣は、「欧州の天地は複雑怪奇(ふくざつかいき)」との言葉を残し、総辞職しています。
また日本の各新聞もナチスドイツに盲目的になっていたため、独ソ不可侵条約を見抜くことができず、紙面では狼狽するにいたっています
。経緯3.ドイツ軍の快進撃で、日本国内において「ドイツブーム」が招来
しかし、昭和15(1940)年5月ごろから始まったヨーロッパ西部戦線において、ドイツが目覚ましい活躍を見せると、日本国内においてドイツブームが沸き立ちました。
同年8月に入ると、ドイツ軍によるイギリス本土爆撃が開始されますが、各紙面は「倫敦(ロンドン)・今や半身不随」といった見出しで、ドイツ空軍によってイギリスは崩壊寸前であることが伝えられます。
この時期より、日本国内ではドイツとの提携強化が叫ばれるようになります。
そのようななかで、元老の西園寺公望(さいおんじ・きんもち)や、戦後首相になった吉田茂(よしだ・しげる)らは事態を冷静に分析し、両者とも最終的に戦争に勝利するのはイギリスだろうとの観測を持っていました 。
いま日本の新聞は挙つてドイツが結局において勝つやうなことをかき、ドイツに有利な宣伝を書いてゐるけれども、実際の状況はイギリスも相当にやつてをる。
(中略)
ドイツの勝利もすごぶる疑わしい。のみならず、イギリス海峡を渡ることは、どうも実際において難しいやうに思へるし、今後の戦争の成行きについては逆睹(ぎゃくと)し難い。
吉田茂
出典:岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』、慶應義塾大学出版会、98頁、2005年。
経緯4.第二次近衛文麿内閣で「日独伊三国同盟」が成立
昭和15(1940)年9月にドイツより、ハインリッヒ・シュマーター特使が来日し、松岡洋介外相との間で同盟の交渉が始まります。
そして同月9月27日についにベルリンで日独伊三国同盟が調印されるに至りました。
日独伊三国同盟が結ばれた理由・目的
日独伊三国同盟を締結した三国の理由や目的を紐解いていきましょう。
- 【日本の理由】アメリカを牽制(けんせい)するため
- 【ドイツの理由・目的】同じくアメリカの参戦を防ぐため
- 【イタリアの理由・目的】国際社会からの孤立を防ぐため
【日本の理由】アメリカを牽制(けんせい)するため
日本が日独伊三国同盟を結んだ理由は、大国アメリカを牽制(けんせい)するためでした。
さらに日本はソ連と軍事同盟を結ぶことで、日独伊ソ軍事ブロックを結成し、アメリカによる日本の南進政策への干渉を抑止しようと考えていたのです。
しかし結果としてアメリカの同盟国のイギリスと交戦中だったドイツと軍事同盟を結んだことにより、日米関係は悪化してしまいました。
【ドイツの理由・目的】同じくアメリカの参戦を防ぐため
ドイツも、アメリカが第二次世界大戦に参戦してくることを恐れていました。
アメリカがイギリス側につき、参戦をすればまず勝ち目がなかったからです。
そのためドイツは日本とイタリアに同盟を持ちかけたのです。
【イタリアの理由・目的】国際社会からの孤立を防ぐため
イタリアは昭和13(1936)年の国際連盟を脱退や、イギリス・フランスなどの国々から経済制裁を受けるようになったことをきっかけに、孤立を深めていました。
そのため、孤立状態を打破するためにドイツと同盟関係を組むことにしたのです。
日独伊三国同盟への反応・思惑
- 海軍による日独伊三国同盟の反応・思惑
- 陸軍による日独伊三国同盟への反応・思惑
反応1.海軍による日独伊三国同盟の反応
海軍は、日独防共協定締結の時点では反対の立場にありました。
なぜなら、海軍は南進論(=南方海洋への発展論)を基本戦略としており、対ソ戦に備えるための「北進」に向けた日独同盟とは反対の立場にあったからです。
しかし、日独防共協定から4年後の日独伊三国同盟は、日独伊ソ四国連合を想定した、対英米戦略強化策として考えられていたため、海軍の南進論的戦略に合致する同盟となっていました(参考)。
つまり、三国同盟は海軍の基本戦略と整合性が取れていたため、三国同盟締結時には反対を示すものは少なくなっていました。
反応2.陸軍による日独伊三国同盟への反応
一方、陸軍も昭和15(1940) 年夏の時点で、それまでの北進=対ソ戦優先という自身の基本戦略を後回しにしていました。
なぜなら、昭和12年から続く日中戦争を解決する必要があり、南方の戦略強化に転換していたからです 。
また対ソ戦に関しても、昭和14年のノモンハンでの苦戦から、慎重論が叫ばれるようになっていました。
こうした理由から、交渉開始から短期間で締結に漕ぎつけたのです
。日独伊三国同盟の影響とその後について
三国同盟が結ばれた翌年、日本は「日ソ中立条約」を結んで、ソ連との国交を調整をしています。
日独ソ伊の四カ国でアメリカを牽せいすることで、アメリカとの関係回復をはかろうとしたのです。
しかしその構想は、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に進行したことで水の泡になってしまいます。
また日本の思惑とは裏腹に、日ソ中立条約をきっかけとして、日本に対するアメリカからの警戒心が高まっていきます。
アメリカは、日本が物資を求めてインドシナ半島など南方地域を確保しようとした「南進政策」が進行することを警戒していたのです。
この政策に対するアメリカからの反応は厳しく、在米日本人の資産が凍結されるなどの措置が取られます。
その後の歴史はご存知の通り、日本は昭和15(1941)年12月8日に真珠湾を攻撃をし、日米開戦が始まりました。
日独伊三国同盟のまとめ
アメリカとの戦争を回避するために結ばれた日独伊三国同盟でしたが、結果的にはアメリカとの戦争のきっかけとなる出来事になってしまいました。
それでは記事のまとめです。
- 日独伊三国同盟とは、昭和15年(1940年)9月27日に日本、ドイツ、イタリアの三国で締結された軍事同盟のこと。
- 日本とドイツはアメリカを牽制するため、イタリアは孤立化を防ぐために同盟が結ばれた。
- 日独ソ伊の四カ国でアメリカを牽せいすることで、アメリカとの関係回復をはかろうとしたが、ドイツのソ連進行で水の泡になってしまった。
- また南進政策が進み、アメリカから警戒されることとなった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
また次の記事でお会いしましょう。
【参考文献】
- 鳥海靖『日本の近代 国民国家の形成・挫折と発展』、放送大学教育振興会、2013年。
- 岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』、慶應義塾大学出版会、2005年。
- 相澤 淳「日本と三国軍事同盟」、防衛研究所、2010年。
- 『官報』昭和15(1940)年10月21日。