明治期の戦争・事件

日比谷焼き討ち事件とは何か?目的・その後の影響をわかりやすく解説しました

日比谷焼打事件

「日比谷焼き討ち事件(日比谷焼討事件)とは?」

「どのような経緯で日比谷焼き討ち事件は発生したの?」

先生
先生
この記事では、日比谷焼打事件が発生した経緯やその後の影響について解説します。

日比谷焼き討ち事件とは何か?

日比谷焼き討ち事件とは、日露戦争の講和条約の内容に反対した民衆達が起こした暴動事件です。

明治38(1905)年9月5日、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)日比谷公園をはじめとする東京市内の各地が襲撃され、東京は無政府状態となりました。

日比谷焼き討ち事件が起きた経緯と背景

なぜ日比谷焼打事件は発生したのでしょうか。

そのヒントはポーツマス条約内容に隠されています。

経緯と背景1.日露戦争に勝利した

日露戦争

日露戦争は朝鮮半島と満州の利益を巡り、日本とロシアが行った戦争でした。

なぜ日本とロシアが戦うことになったかというと、ロシアは不凍港を手に入れる為、南へと勢力を拡大し、朝鮮半島を支配下におきつつあったからです。

朝鮮半島がロシアの支配下になると、つぎに日本が狙われる可能性が高く、日本は朝鮮半島と満州からロシアを撤退させ、権益を守る必要がありました。

こうして始まった日露戦争でしたが、日本は大国ロシアに対して有利な状況で戦争を進めました。

かの有名な日本海海戦で日本が勝利した段階で、アメリカがロシアと日本の仲介に入り、戦争は終結します。

日露戦争
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経緯と背景2.ポーツマス条約の締結

ポーツマス条約

日露戦争の講和条約として、アメリカの大統領 セオドワ・ルーズベルトの仲介によってポーツマス条約が結ばれました。

条約ではロシアは満州や朝鮮半島から撤退することが決められ、日本は樺太の一部や遼東半島を手に入れます。

しかし賠償金の支払いをロシアは拒否し、日本はそれを受け入れてしまいます

なぜなら日本は多くの兵を失ったうえ、アメリカやイギリスから借金をしている状態だったので、戦争を継続させることは不可能だったからです。

日本にとっては戦争を終結させ、講和に持ち込む事が最重要事項だったのです。

経緯と背景3.ポーツマス条約に対し日本国民は失望した

9月5日にポーツマス条約は締結されますが、日本国民は賠償金が取れない事に不満を抱きます。

何故なら日露戦争では増税が行われ、家族が戦地に駆り出される等、国民はとても苦しんでいたからです。

「勝利したのだから賠償金が貰える」と日本国民は当然のように思っていました。

実は戦争の間、新聞は連日連勝の記事を書き続け、日本の窮乏は国民には知られていませんでした。連日連勝にもかかわらず賠償金が得られないと言う事で、国民は納得がいかなかったのです。

なぜなら新聞で日本の現状を正確に発信すると、ロシアに情報が漏れてしまい、戦争が長期化する可能性があったからです。

日比谷焼き討ち事件の詳細と被害について

日比谷焼打事件の被害状況
日比谷焼打事件の被害状況(出典:Wikipedia

事件の発端

ポーツマス条約が締結された9月5日に日比谷公園で講和問題同志連合会が集会を開きます。

目的は講和反対の署名を政府に提出する為でした。

この連合会はロシアとの開戦論を唱えていた強硬派であり、民衆を煽る可能性があると警視庁は危惧。集会を中止し、日比谷公園を封鎖します。

日比谷焼打事件の決起集会の様子(画像出典:Wikipedia

民衆の暴動

しかし正午には数万人の民衆が日比谷公園に侵入し、警官隊を突破。民衆は暴徒と化します。

公園の封鎖という警視庁の対応が、民衆の気持ちを逆なでしたからでした。

内務大臣官邸や外務省、ポーツマス条約を肯定した国民新聞社が襲撃されたほか、警察署や交番、電車に火を付ける等、大変な騒ぎになります。

民衆の怒りは講和を仲介したアメリカにも向かい、公使館やキリスト教会、牧師も襲われます。

ロシアと関係の深いニコライ堂も襲撃対象となりますが、近衛兵の護衛にて被害を防ぎます。

被害状況によってはアメリカやロシアと戦争になってもおかしくないほどでした。

事件の収束

翌日の9月6日に政府は戒厳令を敷きました。戒厳令とは、国民の権利を保障した憲法や法律を軍部の指揮下に置く事です。

緊急勅令が宣告されたのは、日比谷焼き討ち事件関東大震災二・二六事件のわずか3回です。

民衆の暴動は軍事の介入がないと止められないほどだったのです。

後に騒動は収まりますが、死者17名、負傷者500名、検挙者2000名と規模なものでした。裁判の結果81人が有罪となりますが、殆どが下級層の人達でした。

日比谷焼き討ち事件のその後の影響

新聞

影響1.「日比谷焼打事件」は大正デモクラシーの先駆けとなった

日比谷焼き討ち事件の暴動は後に起こる大正デモクラシーの先駆けと言われています。

「民衆が行動すれば、政府をも動かす力を持つこと」は政治に参加する術のない国民にとって、大きな経験となったのです。

なぜなら当時の日本では選挙権を持つ者は全体の2.2%ほどで、多くの国民は政治に参加する事はできなかったからです。

事件は収束しても、国民の怒りは収まらず、9月7日には神戸で、9月12日には横浜で暴動が起こります。

影響2.アメリカの対日感情の悪化

ルーズベルトがポーツマス条約の仲介に入ったのは満州の利益を狙う目的もありましたが、日本に対しての理解もあったからです。

しかし日本国民が日比谷焼き討ち事件を起こし、公使館の襲撃だけでなく、ルーズベルトへの批判が高まっている事を知ると、アメリカからの日本への印象は悪くなります

日露戦争での日本の勝利を受けて、アメリカの世論も黄禍論(黄色人種は脅威であると言う考え)が台頭するようになり、日本とアメリカの関係は悪化していきます。

日比谷焼き討ち事件のまとめ

記事のまとめ
  • 日露戦争で日本はロシアに勝利した
  • 戦争に勝利したが賠償金は得られず、日比谷公園で暴動が起きた
  • 暴動は戒厳令にて収束するが、国民の不満は残り続けた
  • 日比谷焼き討ち事件は後の大正デモクラシーのきっかけとなった

最後まで読んでいただきありがとうございました。

また次の記事でお会いしましょう。

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勝田健太郎
勝田健太郎
トウレキ(東京歴史倶楽部)の運営。近代日本史オタクのWEBマーケターとして活動中。 慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。学生時代の卒業論文のテーマは「親日派外国知識人が見た満州事変」。