戦後の日本思想を語る場合、最も多く言及されてきた人物は東京大学法学部教授・丸山眞男でしょう。
戦後日本を代表する知識人として政治学、思想の世界に多大なる影響を与えた人物です。
早速、彼の生涯に迫りましょう。
目次
丸山眞男の生涯
1.丸山眞男の年表
以下は丸山眞男の略年表です。
1914年(0歳) | 3月22日、大阪にてジャーナリスト丸山幹治の子として生まれる |
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1921年(7歳) | 東京に転居 |
1933年(19歳) | 唯物論研究会の講演会に参加し、検挙・拘留される |
1937年(23歳) | 東京帝国大学法学を卒業し、同学部助手となる |
1940年(26歳) | 同学部の助教授となる |
1942年(28歳) | 東洋政治思想史講座を担当する |
1944年(30歳) | 朝鮮平壌に応召 |
1945年(31歳) | 広島の陸軍船舶司令部に再応召され被爆 |
1946年(32歳) | 「超国家主義の論理と心理」を発表 |
1952年(38歳) | 『日本政治思想史研究』を刊行 |
1961年(47歳) | 『日本の思想』を刊行 |
1968年(54歳) | 東大紛争で全共闘の学生が法学部研究室を封鎖 |
1971年(57歳) | 東京大学法学部教授を辞職 |
1996年(82歳) | 進行性肝臓癌のため死去 |
2.丸山眞男はジャーナリズムのなかで育つ
『大阪朝日新聞』で筆を揮っていた高名なジャーナリスト・丸山幹治の次男として大阪で生まれます。
そのあと一家で東京に転居し、1923年には関東大震災を経験します。
関東大震災直後の東京駅(出典:Wikimedia Commons)
東京に居を構えた丸山家には右派系ジャーナリスト・井上亀六や左派系に属する言論人・長谷川如是閑が出入りし、丸山の思想形成に影響を与えます。
3.投獄体験と軍隊経験(1930年代〜終戦)
1933年、19歳の一高生だった丸山は唯物論研究会の創立記念講演会に出席して逮捕されました。
国家権力の発する暴力の実体験と自身の知性の頼りなさを痛感し、後の言論活動にも影響を与えます。
1944年、軍隊への応召があり朝鮮半島の部隊に入ります。
丸山にとって屈辱的であった軍隊経験は思想化され、敗戦直後に執筆した「超国家主義の論理と心理」などの一連の論文に表れます。
4.論壇のカリスマとしての丸山眞男(1950〜60年代)
1950年代から60年の安保闘争にいたる時代は、丸山が最も活躍した時代です。
占領を終わらせる講和条約や、戦後の平和憲法の問題まで鋭い視点で論じ続け、論壇のペースメーカーとしての役割を果たします。
安保闘争では政治運動の前線に登場し、大きな影響力を持ちました。
メディアで大きく取り上げられた「選択のとき」や主著『現代政治の思想と行動』(1956年)に収める講演「現代における態度決定」などにより、多く読者にとっての丸山像は岸内閣への抗議に立ちあがるような人々を促す存在でした。
5.丸山眞男と全共闘
全共闘ゲバヘル(出典:Wikimedia Commons)
1968年以降の大学紛争に際して、「戦後民主主義」を否定した全共闘の学生から「戦後民主主義の象徴」、「学内秩序を固守する教授の代表」と見なされ、集中攻撃に曝されました。
丸山は東大の明治新聞雑誌文庫の所蔵資料を学生から守るため、連夜泊まり込みを行いました。
6.丸山の晩年
丸山は全共闘の講義妨害や吊るし上げにより身体を壊し、定年を待たずに東大を辞職しました。
メディアから「堕ちた偶像」扱いされた丸山は、時事論文を書くことやメディアへの露出から距離を置き、本来の自分の仕事はアカデミックな論文の執筆である、と自覚しますが、1960年代後半以降、寡作の状態が続きます。
そして1996年8月15日、肝臓癌のため82歳で死去します。
丸山眞男の主な功績と著作
丸山は時代の潮流と構造を掴む天才です。
その才が如実に発揮されたのが下記の時事論文と著作になります。
「超国家主義の論理と心理」(1946年)
「超国家主義の論理と心理」という論文は、1946年の『世界』5月号に掲載され大きな反響を呼びました。
この論文のテーマは、近代化を遂げたと思われた日本はヨーロッパ近代の「中性国家(※)」ではなかったという点です。
丸山は日本を権威や権力、外面から内面的価値に至るまで一切の価値を国家が包括する全体主義国家であったと批判します。
そこでは権力者の抑圧が、下のものへ順々に発散される「抑圧の移譲」の仕組みがあったと言います。
この上から下への支配の根拠は、天皇からの距離に比例していました。
しかし、その天皇自身も自由に決断する主体ではなく、「神武創業の古にまで遡る伝統の権威」に規定されるという国民や軍人と同様な「権威への依存性」がありました。
中性国家
道徳や真理等の内面的価値の領域に国家は立ち入らず、教会や個人に委ねるようなあり方のこと
「日本ファシズムの思想と運動」(1947年)
当論文では戦前戦中のファシズム運動について時代的区分をするとともに、思想的、社会学的により具体的な考察を加えています。
日本のファシズム運動の特徴として、以下をあげています。
- 公的なものと私的なものの未分離な家族主義的な傾向
- 人工物としての国家よりも、自然的とされる郷土が愛好される農本主義的性格
さらにファシズム運動の担い手についても言及します。
担い手は小工場主、町工場の親方、学校教師、僧侶といった地方の「擬似インテリ」で
あったといいます。彼らは自らの小さな世界において、小天皇的な権威を振るいました。
これは日本の軍隊において下士官が大威張りして暴力を常習化していた構図と類似しています。
「軍国支配者の精神形態」(1949年)
丸山の当論文は東京裁判での被告人の答弁を取材し、日本の政治指導者達の責任についての意識を取出そうと試みたものです。
丸山はナチス指導者と比較し、日本の政治指導者達の「矮小性(わいしょうせい)」を指摘します。
「日本の政治指導者たちの「矮小性」とは?
ナチス指導者の多くがアブノーマルなアウトローだったのに対して、日本の指導者の多くは高学歴の秀才であり将来を嘱望されたエリートでした。
なぜこのような秀才が無謀な戦争を行ったのでしょうかか?
丸山は、日本の戦争指導者の問題として「既成事実への屈服」と「権限への逃避」を挙げ、この両方が政治責任の不在である「無責任な体系」を作り上げたと説きます。
そして、その原因を政治の官僚制化に求めます。
政府の頂点にあるのは実権を持たず担がれているだけの「みこし」であり、実権は役人が握っている。しかし、この役人は政治的決断のできない無責任者の集団だというわけです。
『日本政治思想史研究』(1952年)
丸山は本書の中でヨーロッパにおける思想の近代化を物差しとして、日本の江戸時代にも「思惟」の面における近代化があったと説きます。
その転機となった人物を荻生徂徠に見出します。
徂徠はそれまでひとつなぎにされていた「公=政治の世界」と「私=人間の道徳」とを明確に区別し、個人の個性を重視するとともに公権力に関わらない領域では私的な自由を認めた、と丸山は解釈します。
これは投獄経験以来の、個人の内面への国家権力介入に対する批判を思わせるものがあります。
さらに徂徠は「道=儒教の経典に見られる自然界の理法」ではなく、「道=天下国家を上手く統治するための制度」を意味し、古代中国の聖人が秩序を維持するために作為的に構築した礼楽刑政(れいがくけいせい※)を重んじた、と論じます。
丸山はヨーロッパがマキャベリによって「政治の発見」をしたように徂徠やその後の本居宣長に「近代的なもの」の萌芽を捉えました。
礼楽形成
古代中国で国の秩序を保つために必要とされていた。礼儀、音楽、刑罰、政令のこと。
『日本の思想』(1961年)
本書の中で丸山は日本の思想の座標軸の欠如を指摘し、その特徴を挙げます。
- 日本人は自分たちの思想がこれまで辿って来た変遷の過程を、体系的・歴史的に再構成するのが苦手。
- そのため、外来の思想を輸入する際、その思想が形成された歴史的分脈を無視して、自分に理解しやすいところだけつまみ食い的に受け入れる傾向がある。
- その延長で西欧近代を根本的に批判するような、ニーチェのニヒリズムのような危険思想まで無害な体制順応的な観念に変貌する傾向がある。
日本は次々と外来の思想を輸入したものの、その蓄積も相互の関連付けもなされぬまま忘却されていきました。
そこに日本人の近代的思考の未成熟さがあり、近代的な意味での思想の構造化を経ない限り、先に進めないというのが丸山の主張です。
参考文献
- 苅部直『丸山眞男―リベラリストの肖像』(岩波新書、2006年)
- 長谷川宏『丸山眞男をどう読むか』(講談社現代新書、2001年)
- 間宮陽介『丸山眞男 日本近代における公と私』(ちくま学芸文庫、2007年)
- 丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、1961年)
- 丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大学出版、1952年)
- 丸山眞男著、古矢旬編『超国家主義の論理と心理 他八編』
- 仲正昌樹『〈戦後思想〉入門講義――丸山眞男と吉本隆明』(作品社、2017年)
- 吉住唯編『丸山眞男 没後10年、民主主義の〈神話〉を超えて』(河出書房新社、2006年)