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福沢諭吉とはどんな人?慶應義塾大学を開いた偉人の年表・功績を知る

福沢諭吉
まさるさん
まさるさん

どんな生涯を送ったの?
なぜ慶應義塾大学を作ったの?
なぜ1万円札の肖像画に選ばれたの?

幕末・明治の教育者として有名な福沢諭吉。

現代では1万円札の肖像画としても選ばれている人物です。

どのような生涯を送った人物なのでしょうか。

この記事でわかること
  • 福沢諭吉の生涯
  • 福沢諭吉と慶應義塾
  • 福沢諭吉の功績と書籍
  • 一万円札に描かれている理由は?

目次

福沢諭吉の年表

以下は福沢諭吉の年表です。

西暦(年齢) 出来事
1835年(0歳) 大阪にて生まれる
1854年(19歳) 長崎に蘭学勉強のために遊学
1855年(20歳) 緒方洪庵の適塾(てきじゅく)に入る
1858年(23歳) 江戸で蘭学の塾を開く
1859年(24歳) 咸臨丸でアメリカへ
1863年(28歳) 私塾を開設
1868年(33歳) 私塾の名前を慶應義塾に変更
1872年(37歳) 『学問のすすめ』を発行
1901年(66歳) 脳出血で死去

下級藩士の出身だった福沢諭吉

今でこそ偉人としてのイメージが強い福沢諭吉ですが、中津藩(現在の大分県)の大阪蔵屋敷の下級武士の家系に生まれます。

父親の福沢百助(ひゃくすけ)は、福沢が1歳の頃に亡くなったため、内職をしながら家系を支えます。

貧しいながらも福沢は幼少期から漢学や剣術を学び、14歳からは塾に通って勉学に励むようになります。

【19歳〜23歳】蘭学を学び、塾を開いた福沢諭吉

福沢諭吉は、10代から20代前半の若い頃は蘭学者(オランダ学者)として活躍していました。

19歳で長崎にてオランダの兵法を学んだあと、20歳の頃に再び大阪の地に戻って本格的に蘭学を学びます。

大阪の蘭学者で医師の、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)で学ぶことになったのです。

適塾は、陸軍を創設した大村益次郎なども学んだ蘭学塾で、他にも多くの優秀な人材を排出しています。

日本中から多くの勤勉な学生が集う塾でしたが、福沢は塾に住み込みながら必死に勉強して、史上最年少の塾長に選ばれました。

こうして蘭学を納めた福沢は、江戸に赴き、慶應義塾の前身となる蘭学塾を若干23歳で開設します。

【福沢諭吉の時代を読む力】オランダ語から英語の時代に

23歳のとき(1858年)に江戸で蘭学塾を開いた福沢ですが、その翌年に横浜を訪れた際に彼の人生の転機が訪れます。

当時の横浜は、1858年に日米修好通商条約(安政五ヶ国条約)が結ばれたことを契機に、外国人向けの居留地が整備されていました。

そこで福沢は外国人が、自分が学んでいたオランダ語ではなく、英語ばかり話していたことに驚かされたのです。

「これからの時代はオランダ語ではなく英語だと気づかされた福沢は、独学で英語を学び始めます。

【オランダ語から英語の時代に】福沢諭吉のアメリカ時代

福沢は、25歳のとき、幕府の遣米使節に志願して、咸臨丸でアメリカに渡航します。

アメリカで様々な文化の違いに触れた福沢は、渡米中に英語の辞書『ウェブスター』を購入し、帰国後は単語集『(増訂)華英通語』を刊行します。

また帰国後に、塾の教育を蘭学から英学に切り替えたことで、日本の英語教育に多大な貢献をもたらしました。

【33歳】慶應義塾を設立

福沢諭吉は33歳のときに、同じ志をもつものが共同で学ぶ目的で発足した近代的な学校、慶應義塾を開きます。

ただ最初から慶應義塾という名前だったのではなく、のちに付けられた塾名でした。

学生から毎月授業料を取り入れた学校の運営はこれが初めてでした。

「義塾」という名前は、当時一般的な言葉ではなく、イギリスのパブリック・スクールの中国語訳の「義学」を日本語訳にしたものと考えられています※参考

設立から3年後の1871年には、現在の東京都港区の三田の地に学校を移し、1890年には私立として最初の総合大学「慶應義塾大学」が誕生します。

大学設立当時は、文学・理財・法律の三科のみの大学でしたが※参考、2019年現在は全10学部をカバーする日本トップの私立大学にまで成長し、多くの実業家を輩出しています。

福沢諭吉の晩年

福沢が亡くなる7年前の1894年に発生した日清戦争では、政府と軍を支持して戦争を激励するなど、福沢は晩年も熱心に国家の発展を願い続けていました。

1901年に脳出血で亡くなった福沢の葬儀の際は、三田の自邸から麻布善福寺まで15,000人もの人が参列するなど、生涯を通して人徳があったことがうかがえます。

福沢諭吉の主な功績と書籍(本)

時事新報の設立

福沢諭吉は『時事新報』という新聞を発行しています。

この新聞は現在の毎日新聞の前身となる新聞社で、特定の政党を支持しない「不偏不党」をモットーとしていました()。

時事新報以外の新聞は、政党機関紙としての側面を持っていた時代でしたが、このスタンスは当時の国民に受け、発刊当時の1500部からわずか2年後には5000部まで部数を伸ばします)。

『学問のすすめ』

「天は人のうえに人を作らずと言えり」で始まる『学問のすすめ』(1872年)は、福沢諭吉の代表作として有名です。

「日本人は国家の独立と発展を担う責任がある」と解かれた本でしたが、比較的かんたんな言葉づかいで書かれていたため、当時300万部も売れるベストセラーとなりました。

当時の人口がおよそ3,000万人だったので、およそ日本人の10分の1は購入していたことになります。

なぜ福沢諭吉は1万円札に描かれているの?

福沢諭吉

福沢諭吉といえば1万円札です。

なぜ福沢諭吉は、1万円札に描かれているのでしょうか?

1万円に描かれている理由
  • 慶應出身の政治家が福沢諭吉になるように働きかけた
  • 偽造防止のために、特徴的な肖像画が残されている人が選ばれた

などの理由があると言われています。

福沢諭吉のまとめ

福沢諭吉

福沢諭吉の生涯については理解できましたか?

これらの情報がお役に立てれば嬉しいです。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

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勝田健太郎
近代日本史オタクのWEBマーケター。 慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。学生時代の卒業論文のテーマは「親日派外国知識人が見た満州事変」。