明治27年(1894年)、日本と清国の領国が朝鮮への影響力を拡大しようとしたことをきっかけに戦争がはじまります。
戦争の結果は日本の圧勝。
日本は戦争を終結させるための条約、下関条約で朝鮮の独立を認めることができ、この戦争に勝利したことで朝鮮に対する影響を増していきます。
この記事では、日清戦争の原因やその後の影響について解説します。
目次
日清戦争とは?
「大日本帝国万々歳 成歓衝撃我軍大勝之図」、木版画(出典:WIKIMEDIA COMMONS)
日清戦争は、1894(明治27)年7月から翌年4月まで、日本と清国の間で、朝鮮に対する支配権をめぐって起きた戦争です。
戦争の結果は日本の圧勝に終わり、下関条約において、日本は清国に朝鮮の独立を認めさせました。
さらに、当時の日本の国家予算の4倍にもなる多額の賠償金と、遼東半島・台湾・澎湖列島を清国から割譲※させます。
日清戦争での勝利は、明治政府がすすめてきた近代化改革が成功したことを示し、近代国家としての日本の地位を確立させるものとなりました。
土地や物の一部を分割し、ほかの人物や国にわけ与えること。
日清戦争が起きた背景
日清戦争は、朝鮮における影響力を拡大したい日本と、伝統的な朝鮮との宗属関係を維持・強化しようとする清国との対立のなかで、日本が起こした戦争です。
朝鮮をめぐる対立の背景には、欧米列強がアジアの国を次々と植民地にしていく動きが大きく関係していました。
- 背景1.日本が感じていたロシアの脅威
- 背景2.朝鮮の不安定な内政
- 背景3.甲午農民戦争
背景1.日本が感じていたロシアの脅威
日清戦争以前の日本が、外国との関係の中でどのような立場におかれていたのかをみてみましょう。
明治時代に入った日本は、アジアの国々が次々と欧米列強の植民地にされていく中で、いち早く近代化を進め、植民地となることを免れていました。
しかし欧米列強の脅威は変わらず存在しており、日本が特に意識していたのが、不凍港を求めて南下政策をとっていたロシアです。
日本にとって、国の安全を守るために、絶対にロシアにとられてはならない場所がありました。それが朝鮮です。
日本と清国が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っているジョルジュ・ビゴーによる風刺画
(出典:WIKIMEDIA COMMONS)
背景2.朝鮮の不安定な内政
日本にとって重要な場所に位置していた朝鮮ですが、国内では不安定な状態が続いていました。
この時期の朝鮮は欧米列強の脅威に対して、今まで通り清に従属して対処するか、近代化を進める日本をモデルにするかで、国内の意見が割れていたのです。
日本は近代化を進めようとする勢力を後押しし、朝鮮の内政に干渉しようとしますが、反発も大きく失敗します。(壬午軍乱・甲申の事変)
日本が朝鮮への影響力を大きくしようとした理由
もともと朝鮮の支配権をもっていたのは、清国でした。
清と朝鮮は古くから「華夷秩序(かいちつじょ)」という伝統的な対外関係を結んでおり、簡単に言えば、朝鮮は中国に従属していたのです。
日本からすると、国の防衛の観点から大事な位置にある朝鮮で、欧米列強に太刀打ちできない清の影響力が強いことは望ましくありません。
朝鮮を清国から独立させて近代化を推し進め、ロシアとの間の防波堤の役割を果たしてもらおうというのが、日本の考えでした。
背景3.日清戦争のきっかけとなった甲午農民戦争
朝鮮への影響力拡大をねらっていた日本ですが、朝鮮国内では大きな問題が起きていました。
開国後の日本は、対外貿易の影響で物価があがり民衆の生活が苦しくなりましたが、それと同じことが朝鮮国内でも起きていたのです。
さらに、対策をうてない朝鮮王朝に対する不満が高まり、東学という民族宗教で結集した民衆が大反乱を起こしました。
手に負えなくなった朝鮮政府は、清国に助けを求めて出兵を要請します。
日本への出兵要請はありませんでしたが、朝鮮への足がかりをつくろうとした日本は、朝鮮にいた日本人の保護を名目に出兵してしまいます。
さらに、朝鮮から両軍とも撤兵要請がでたとき、日本は拒否して朝鮮に残り続けました。こうして7月末に清国艦隊を砲撃し、宣戦布告する形で日清戦争が始まったのです。
日清戦争の結果、下関条約を結ぶことに
戦争の結果は、日本の圧勝でした。
下関条約では、日本は清国に朝鮮の独立を認めさせ、当時の日本の国家予算の4倍にもなる多額の賠償金を得ます。
ほかにも、遼東半島・台湾・澎湖列島を清国から割譲させ、初めて海外に植民地を獲得しました。
- 朝鮮の独立を認める
- 遼東半島,台湾,澎湖諸島を日本の領土に
- 台湾総督府を置き日本の植民地に
- 賠償金2億両(テール)を日本に支払う
※当時の日本円で約3億円。現在の約36兆円
日清戦争の勝因
日清戦争で日本が勝利した理由、それは軍隊の近代化にあったといわれています。
日本は明治時代に徴兵制度を作り、優秀な兵員を集め、バランスのとれた師団組織を作っていました。
一方清は、国として軍隊の統一はされておらず、各地で徴募した人員を兵隊として戦わせていたようです。
こうした日本と清の軍隊の組織の差は、軍人の士気にも大きな影響を与えました。
日清戦争において、武器や兵力に大きな差はなく、それよりも、統一のとれた組織編制や軍人の士気の高さが、日本の勝利につながったといえます。
日清戦争の影響
日清戦争の終戦後、弱体化した清は欧米列強によって国を分割され、さらには日本もロシア・ドイツ・フランスから三国干渉を受けるなど、両国とも欧米列強中心の国際的なパワーバランスの中に急激にのみ込まれていきます。
これにより、日本はアジアにおける権益で対立するロシアとの戦争に備え、手に入れた賠償金のおよそ8割を、陸海軍の軍備拡張のために費やしました。
日清戦争の勝利によって日本は、近代化の成功を見せつけ、東アジアのパワーバランスを崩し、その後の日本の進路を大きく変えました。
日清戦争のまとめ
- 明治27(1894)年に日本と清国の間で、朝鮮に対する支配権をめぐって起きた戦争
- 朝鮮国内で起きた甲午農民戦争がきっかけで、日清両軍が衝突した
- 徴兵制度によってバランスのとれた師団組織を編成して、優秀な兵員を確保していた日本が、清国軍を圧倒した
- 日清戦争の勝利によって、日本は三国干渉を受けるなど、国際的なパワーバランスの中にのみこまれていった