「上海事変って聞いたことあるけど、どんな事変?」
「第一次上海事変と第二次上海事変の違いは?」
この記事はこのような疑問を解決できる記事になっています。
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目次
第一次上海事変と第二次上海事変は全く違う時代のもの
第一次上海事変=昭和7(1932)年1月
第二次上海事変=昭和12(1937)年8月
第一次上海事変から5年後に発生したのが、第二次上海事変よ。
第一次上海事変は満州事変後に発生
満州事変以降、中国における対日感情は悪化し、反日運動やボイコットが拡大していきます。
反日ムードのなかで、日本人僧侶が中国人によって襲撃される事件が発生し、これをきっかけに警備を名目として海軍陸戦隊が上海に侵入し、戦闘が開始されます。
▲上海市・虹口区にある上海海軍特別陸戦隊の司令部(編集部スタッフ2017年9月撮影)
実際のところこの僧侶殺害事件は、関東軍参謀の板垣征四郎らの指示のもと、上海公使館付武官田中隆吉少佐が画策したことが明らかになっています。
上海停戦協定で第一次上海事変は終息
日本軍はこの戦闘で苦戦を強いられ、中国軍が新たに増援を派遣すると、日本側も二個師団(約2万人)の増派を決定しました。
こうして日本軍は中国軍を撤退させることに成功し、戦闘を中止します。
戦闘中止後の昭和7(1932)年3月4日には、日中両国による停戦協議を開始する決議が採択されました。
第一次上海事変の影響
第一次上海事変は、奇しくも国際連盟の通常理事会の開催と同日に発生したことから、国際連盟で大きく取り上げられることになります。
また上海事変では日本の主張が満州事変以上に受け入れられず、翌年の連盟脱退に繋がる要因になりました。(参考:玉井清研究会『第一次上海事変と日本のマスメディア』77頁)。
第二次上海事変は日中戦争中に発生した
第二次上海事変は、日中戦争が開始した昭和12(1937)年7月7日から約1ヶ月後の8月13日に発生します。
8月12日に中国軍によって国際共同租界の日本人区域が包囲され、翌日13日には中国軍第88師第523団第1営が砲撃を開始したことで、日本が応戦しました。
当時上海には日本人居留民が多く存在し、民間人にも多数の犠牲者を出しました。
第二次上海事変の影響:中国との全面戦争が決定的なものに
第二次上海事変をきっかけに、国民党の蒋介石は日本との全面戦争の姿勢を固めました。
蒋介石は事変が発生して2日後の8月15日には、総動員令を発して大本営を設立し、陸海空三軍の総司令に就任します。
またこれまで国民党の敵は毛沢東(もうたくとう)率いる共産党でしたが、翌昭和12(1937)年9月、両者による協力体制が正式に築かれました。
この協力を「第二次国共合作」(こっきょうがっさく)と呼びます。
国共合作以降、国内の団結が強まると、日本は明確な敵として描かれるようになり、昭和20(1945)年の日本の敗戦まで、中国との戦闘は続きます。
(中国が)英米によって日本を牽制せんとする政策は満州問題以来ほとんど恒久的な根本政策となった観があり、これが実現のためにはいわゆる親欧米派なる一切の政治家、学者、商人が参加して大小のオペレーターの役を果たしているのは事実である(中略)。
(山下正義「蔣介石の機密室」、『文藝春秋』昭和12(1937)年8月臨時増刊号。かっこ内は編集部補足)
(国民)政府も党も国家統一を第一義とし、これがためには日本を敵視し、日本を憎悪し、日本を屈服せしむる事を持って唯一の手段としてすベての国策を樹立してゐる。
(御手洗辰雄「怖るべき「抗日教科書」の内容」、『文藝春秋』昭和12(1937)年8月臨時増刊号。かっこ内は編集部補足)
まとめ
- 第一次上海事変は満州事変後の反日運動をきっかけに発生
- 第一次上海事変は停戦協定を結んで終息した
- 第二次上海事変は日中戦争中に発生し、中国との全面戦争が決定づけられた
わからなくなったらまたここに来れば良いわ。
参考文献
- 慶應義塾大学 玉井清研究会『第一次上海事変と日本のマスメディア』。
- 伊香 俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』(吉川弘文館、2007年)。
- 山下正義「蔣介石の機密室」、『文藝春秋』昭和12(1937)年8月臨時増刊号。
- 御手洗辰雄「怖るべき「抗日教科書」の内容」、『文藝春秋』昭和12(1937)年8月臨時増刊号。