「大津事件の事件概要を知りたい」
「国内外の反発はあったのか?」
日本におけるロシア皇太子のニコライ暗殺未遂事件、大津事件。
この記事では、大津事件の事件概要、影響、反応について解説します。
目次
大津事件とは何か?
大津事件とは、1891(明治24)年に日本を観光していたロシア皇太子ニコライを、警備中の巡査津田三蔵(つだ・さんぞう)がサーベルで斬りつけた事件です。
命に別状はなかったものの、次期ロシア皇帝となる人物に怪我を負わせたこの事件は、日本とロシアの国際関係、そして加害者津田三蔵の処罰をめぐる司法の問題に発展し、対応をめぐって日本国内を大きく揺さぶらせる結果となりました。
大津事件が起きた背景と犯人・津田三蔵の動機・目的
大津事件は以下のような背景から引き起こされた事件でした。
大津事件が起きた背景:ロシアが侵略のために訪れたというデマを信じた
1890(明治23)年10月から、皇太子ニコライはシベリア鉄道の起工式への参列にあわせ、エジプト、インド、スリランカ、シンガポール、ベトナム、中国、そして日本を巡遊することになっていました。
長崎に訪れた皇太子ニコライ(出典:Wikipedia)
しかしこの皇太子の訪日は、日本でさまざまな噂を巻き起こします。
その噂とは、今回の来遊が、日本の各地を探り、将来日本を侵略するための下調べであるというもの。
ほかにも、西南戦争で死んだ西郷隆盛が実は生きていて、ロシア皇太子の軍艦に乗って帰ってくるというものまでありました。
こうした噂が出るのも、当時のロシアは全世界の6分の1の領土を占め、世界最強の陸軍を有し、さらにシベリア鉄道を建設しアジアへの進出をはかっている、日本にとって非常に大きな脅威となる国だったからです。
このような社会の中の不安が、さまざまな噂を作りあげて庶民の間に広まっていきました。
津田三蔵の動機
津田三蔵(出典:Wikipedia)
ロシア皇太子を斬りつけた理由について、津田三蔵は裁判でこう答えています。
愛国の情、忍ぶこと能わざるに至りたるより、害を加え奉りしものなり。
出典:野村義文『大津事件 露国ニコライ皇太子の来日』葦書房 210頁。
現代の言葉に直せば、「日本を愛する気持ちを我慢することができず、皇太子に襲いかかった」ということになります。
津田が皇太子ニコライを襲った確かな理由については分かっていませんが、ロシア皇太子の来日にまつわる噂は、津田の心に暗い影を落とします。
津田はもともと西南戦争に参加し勲章を受けた軍人でしたが、その戦争で精神を病み、入退院を繰り返していました。
彼にとってそこで受けた勲章は生命にも代えがたい大切なもの。
それが、もし西郷隆盛が生きていてロシア皇太子と共に日本に帰ってくるとなれば、大切な勲章が取り上げになるのではないか、そんな不安を抱いたようです。
このような個人的な感情と、ロシア皇太子の旅行は日本侵略のためという噂を妄信した結果、大津事件が引き起こされたと考えられています。
大津事件のその後の影響
津田三蔵の個人的な感情で衝動的に起こされた大津事件が、日本とロシアの国際問題や、津田の処罰をめぐる司法の問題へと大きく発展していきます。
- 津田三蔵の死刑が検討された
- 「司法権」が独立した存在であることが示された
影響1.津田三蔵の死刑が検討された
次期ロシア皇帝の暗殺未遂事件、明治政府が思い描いた最悪のシナリオは、ロシアとの戦争、そして日本の敗北でした。
明治政府はロシアとの戦争を避けるため、犯人津田三蔵を死刑にしようとします。
しかし当時の法律では、被害者が死亡していない場合は、謀殺未遂罪が適用され、最高刑は無期徒刑、死刑にすることはできませんでした。
そこで、どうにか津田を死刑にするために、皇室罪(天皇・三后・皇太子に対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す)の適用が検討されます。
しかし法を司る大審院(現在の最高裁判所)院長である児島惟謙(こじま・これたか)は、皇室罪は日本の皇室にのみ適用されるもので、他国であるロシア皇太子には適用されないとし、津田三蔵を死刑にすることはできないと主張。政府と司法との抗争になりました。
影響2.「司法権」が独立した存在であることが示された
明治政府は津田の裁判に関わる裁判官たちに圧力をかけ、津田を死刑にさせようとしました。
しかし、児島惟謙は「死刑にすることは国家100年の大計を誤るもの」と強く主張し、法を守ることこそ裁判官の職務だと訴えました。
児島の強い思いは裁判官たちの心を揺さぶり、1891(明治24)年5月27日、大審院は政府からの圧力をはねのけ、津田三蔵に無期徒刑の判決を下します。
この裁判は、外国や政治の圧力に対して法を曲げることなく、司法権が独立した存在であることを示す日本の歴史にとって重要な裁判となりました。
大津事件の国内外の反応
大津事件が起きたとき、日本国内および国外では以下のように受け止められました。
- 大津事件の国内の反応:ロシアからの報復を恐れた
- ロシア国内の反応:穏便に片付けた
- 英字新聞での反応:日本の法廷は信用を勝ち取ったと評価
大津事件の国内の反応
大津で警備中の巡査津田が、国賓であるロシア皇太子ニコライを襲い、負傷させたという情報が伝わると、ロシアからの報復を恐れて世間は騒然となります。
そしてロシアの怒りを和らげようと、ニコライ皇太子への見舞いの電報や、慰問の品々が全国から届けられたり、一般の女性がロシアに詫びるため自殺をする事件まで起きました。
ロシア国内の反応
ロシアでは、皇太子負傷の知らせが届くと、皇室をはじめ一般民衆は強いショックを受けました。
しかしニコライ皇太子本人が元気な電報を送ったことや、明治天皇が事件直後に深く陳謝されたり、見舞いに駆け付けたことが功を奏し、ロシア皇帝は代償を求めることなく穏便に事件を片付けます。
裁判の結果、津田が死刑にならなかったことに対しても、日本政府の対応に満足していると答えました。
反応3.英字新聞での反応
外国の新聞記者たちの目には、大津事件をめぐる裁判はどう映ったのでしょうか。
英字紙ジャパン・メールや、ジャパン・ヘラルド(居留地新聞)は、大審院が政府の圧力をはねのけ、法の正条にもとづいて津田に無期徒刑の判決を下したことを評価しました(
)。この裁判によって外国人記者たちは、日本の法廷は信用を勝ち取ったと評しています。
また、大津事件の判決は、日本が司法権の独立を毅然として守り抜くことのできる法治国家というイメージを、世界列国に知らしめることができました。
このことは、明治政府が長年の課題として進めていた不平等条約改正の交渉にもよい影響を与えたとされています。
大津事件のまとめ
- 大津事件は、大津で警備中の巡査津田三蔵が個人的な感情で衝動的に起こしたロシア皇太子の暗殺未遂事件。
- 裁判において、犯人津田三蔵を死刑にしようとする明治政府と、司法制度を守ろうとする児島惟謙たち裁判官の間で、法制度を守るか否かの抗争があった。
- 大津事件の判決により、日本は司法権の独立を守ることのできる法治国家というイメージを世界に知らしめることができ、そのことが不平等条約の改正にもよい影響を与えた。